【現役女性会員の声】私がキリスト教福音宣教会にいる理由

CGM/鄭明析牧師

最近の説教を聞きながらふと思いついたので書きます。

私がキリスト教福音宣教会で信仰を持とうと思えた理由の一つが、「自分の努力や意志が受け入れられる」からです。

私は宗教や信仰を持つことに対して「入信したら崇拝する対象に頼りきって、自分で考えることもせず努力もせず受け身で生きる」という悪いイメージを持っていました

けど私は「努力は必ず報われる、無駄にはならない」という信念を堅く持っていたため、自分が努力せず受け身になること自体に強い抵抗がありました。

それで「宗教コワイ、絶対に私はイヤ拒否する」と考えていました。

ところがキリスト教福音宣教会でバイブルスタディーを学んでいたとき、「神様は人間がよくも悪くも行なった通りに報いを受けるように法をつくられたし、人間の自由意志を尊重してくれる」と聞きました。

「行なった通りに自分が受ける」という話は、今まで生きてきた中で実感した「努力は実を結ぶ」という自分の信念とも通じたし、「人間がどうしたいかは選べる」という話は実際に信仰生活をする中で「あ、本当だ」と感じることがたくさんありました。

それで、それまで抱いていた「宗教や信仰を持ったら受け身な生き方になる」というイメージが覆されました。

もしかしたら受け身な生き方になってしまう宗派?宗教もあるのかもしれませんが、少なくともキリスト教福音宣教会はそんなことがなかったので、楽しく信仰を持てています。

「行なった通りに報いる」話は聖書にもあちこちに書かれています。

主よ、いつくしみもまたあなたに属することを。あなたは人おのおののわざにしたがって報いられるからである。

詩篇62篇12節

主の日が万国の民に臨むのは近い。あなたがしたようにあなたもされる。あなたの報いはあなたのこうべに帰する。

オバデヤ書1章15節

神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、他方では、党派心をいだき、真理に従わないで不義に従う人に、怒りと激しい憤りとが加えられる。

ローマ人への手紙2章6~8節

まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。

ガラテヤ人への手紙6章7-8節

よいことをしたらよいことがかえってくるし、悪いことをしたら悪いことがかえってくるということで、よいことをするか悪いことをするか、人間の意思決定には神様は関与なさいません。

自由意志が尊重されます。

自由意志が尊重されず「あれダメこれダメ」と言われていたら、私の部屋はこんなベイマックスだらけにならなかったことでしょう。

日々増え続けているベイマックス

自由だからこんなことになっているのです、ええ。

神様は人間の意志を無理矢理にコントロールしようとはなさいません。

それは聖書を読んでも明らかです。

鄭明析(チョンミョンソク)牧師の説教より抜粋

このように数か所の出来事だけを見ても、神様は最後には人間に選ばせていることが分かります。

自分が行く道を自由に選択できるということです。

「自由」には「責任」が伴います。

だからこそ、よくも悪くも自分が「こうしたい」と決めて行なったことに対しては、本当に自己責任が伴うなと痛感します。

けど誰かに生き方や意志を強要させられて生きるのはつらすぎますし幸せにはなれませんよね。

自分で考えて自分で決められるので、本当に感謝だし幸せな生き方をしていると思います。

だからキリスト教福音宣教会で信仰生活を続けられています。

これからも、キリスト教福音宣教会で自由に楽しく生きます☆彡

推し活も楽しみます(●-●)