関心を持ってくれる人がいれば生きる

信仰の経緯

2019年もあっという間に12月…。
年を重ねるごとに1年が過ぎるのが早くなっている気がするのは気のせいだろうか(゚ω゚)

先月は仕事がピークの中のピークに達し、仕事の質も身体も精神もすべてがボロボロでした(/ _ ; )

一般的な企業は今月が忙しくなるのでしょうか?(^◇^;)

健康第一で、無理しないでくださいね(´;ω;`)

ボロボロだったこころは、ボロボロすぎて朝も起きられず、昼間も眠くなり、色々な面でストレスがたまりまくっていました。
肉体がそんな状態だったので、もちろん霊魂にも影響は及び…信仰的にも疲れてしまい、礼拝も気が重かったり、御言葉聞くのも負担という最悪な状態でした。

何より朝起きないからとにかく祈りの時間が少なすぎてやばかった。

信仰生活を始めてからこんなに祈る時間を持たなかったのは初めてかもしれない、というくらい(ー ー;)

神様に対しても申し訳ないし「こんな祈らない自分なんて神様が共にしてくださるわけない…」と思って、また勝手に誤解して自分の考えの沼にハマってしまいました。

しかも嫌なことというのは重なるもので。
あろうことか、仕事がなくてせっかく現場で主日礼拝に参加できたのに、御言葉中思いっきりカックンカックンしてしまいました。
つまり夢と現実と狭間で御言葉聞いてしまったのです。
その日に限って御言葉長いし。笑

前の日一日中出かけていて帰りも寝るのも遅くなったとか言い訳は様々あるけれど。
私は御言葉中に寝たことがほとんどなく、御言葉が大好きな分、寝てしまったのはかなりショックで、精神的にすっごくやられました。

そんな事が重なり超自己否定と落胆しまくり、もう礼拝にも行きたくなくなるくらいの末期を迎えていました。

そんなある日、仕事後に水曜礼拝に行くか否かとても悩んだ日がありました。
仕事が終わって着く頃には御言葉は終わってしまうだろうという中途半端な時間だったので、疲れてるし御言葉どうせ現場で聞けないなら帰ってしまおうかと本気で考えました。

しかしどうしても行く感動があり、半ばヤケクソで、ブツブツ文句を言いながら疲れた体を引きずり無理矢理教会に向かいました。

礼拝が終わって速攻教会を出て歩いていたらなんと。
奇跡が起きました。

「会いたい」と思っていた、あるメンバーにばったり遭遇したのです。
その子は普段別の教会に通っている子なのですが、仕事の関係で、自分の教会ではなく私が通っている教会で水曜礼拝を守っていたとのこと。

とてもびっくりしました:(;゙゚’ω゚’):

久しぶりだったので「元気ー?」とか「最近どうー?」という話になりました。
普段だったら元気を取り繕っていたであろうこころですが、身も心もズタボロだったのでありのまま霊も肉も不調で元気ない事を話しました。

その子は同じ社会人ということもあり、すごく分かってもくれ「お疲れ様です!」とか「頑張ってますよ」と
疲れて自分を否定ばかりしていた私に、たくさん暖かい言葉をかけてくれました。

ちなみにその子と対話しながら、自分が思っている以上にとても疲れが溜まっていたこと、そして疲れる自分自体を「こんなんで疲れるなんてー!」と鞭打っていたことに気づかされました…(-_-;)

神様の心情を受けたのか「ゆっくり休んで、リラックスしてほしい」とまで言ってくれて、ご飯に行く約束までしてくれたのです(/ _ ; )
良い子。゚(゚´Д`゚)゚。

そして本当に後日ご飯に行き、そこでまた話をたくさん聞いてくれて、悩みも聞いてくれて、しかも奢ってまでくれました…至れり尽くせり。
(私の方が社会人歴も長いし年上なのに)

その子の優しさと関心から愛がとても伝わってきて、ある御言葉を思い出しました。

愛が伴った管理は生命力のある管理です。愛のある管理をしなければなりません。愛のない管理は、死ぬのです。
「熱心にやっているのに、どうして死ぬのでしょうか。」
愛がないからです。義務的な管理。
「形式的にやるんだったらやめなさい」と聖霊様はおっしゃいました。
愛の管理をしなければならないということです。

愛の中にすべてが入っています。愛は、教科書で言うならば、全部が入っている総合学問です。

毎日管理です。御言葉を与えるだけで終わったら駄目だ。なぜかというと、信仰が病気になったら死んでしまいます。

御言葉を与えただけで放っておいたら、患難の中、病気になって、様々なことで死ぬのです。
しかし、愛する人がいれば生かします。真実に愛する人がいるならば、助けて生かすのです。
鄭明析牧師の御言葉より抜粋

 

語弊のないように一つ加えて説明すると
「管理」≠「監視」
です。

「あれやるな」「これやるな」と締め付けられるものは管理ではないです。支配です。

関心=愛だ、と鄭明析牧師先生はよく仰います。
お互いに関心を持って、元気がない人は支えてあげてね、というような意味合いで「管理」について御言葉を伝えてくださったことがありました。

実際に私を顧みてくれたメンバーを見ながら、また自分が実際に管理を受けてみて
「管理=関心=愛があれば人は生きるんだな」と認めざるを得ませんでした。

同時に思い浮かんだのは、摂理を脱会した人達のこと。
もちろん本人の中で色々あったんだと思うし、本人の決定が最終的な決定打になるので周りが出来ることは限られています。

でも。
「この人のために、どれだけの人が祈ったんだろう。
どれだけの人が関心を持って、声をかけたんだろう」

ふと、疑問に思いました。

いつも食べさせるだけでは駄目です。
祈ってあげるのです。サタンが引っ張って行けないように強力な祈りをすること、それが愛してあげることです。

愛する人は放っておけません。夜、寝られません。祈ってあげるのです。祈りは実際です。
祈ったらその言葉が実際となって、神様に「天使を送って助けてください」と言ったら天使が来て、神様が天使に「助けろ」と言ったらそのように実際に治るのです。
鄭明析牧師の御言葉より抜粋

 

直接何かしてあげられなかったとしても、どれだけその人のために祈った人がいるんだろう。

自分が辛い時、弱っている時掴んでもらった経験を通して、心が痛くなりました。

鄭明析牧師は、ある人が交通事故で亡くなったというニュースを見ながら、「どうしてこの人は死んでしまったのだろう」と疑問に思ったそうです。

そうしたら「あの人のためにどれだけの人が祈ったのだろうか」と心に神様の声が聞こえてきたと話してくださったことがあります。

私は。
自分が弱っている時、辛い時は自分の事で手一杯になってしまうけど。
元気な時、どれだけ周りに関心を払えただろうか。
辛い時、同じように辛く思って苦しんでいる人はいないだろうかと
周りのために、祈れていただろうか。

そう思い、反省しました。

祈りは根気強く行うのです。祈りは仕事だということを忘れないでください。

愛するならば助けてあげ、共にしてあげます。愛したらその人を助けるのです。
共にしてあげ、投資もしてあげます。雰囲気でやってはいけません。
ごはんをおごるだけでは駄目なのです。服をあげるだけでは駄目です。

霊的な管理をしなければなりません。祈って、サタン、悪魔をやっつけてあげなければなりません。

この時代は愛の時代になりました。万物も人間も、愛さなければちゃんと存在できません。

鄭明析牧師の御言葉より抜粋

 

愛するならば祈る。
この言葉を脳に刻んで、疎かになっていた祈りにもう一度火をつけよう。

愛を受けて少し蘇った心に、大きな愛の御言葉をくださったことに感謝します╰(*´︶`*)╯

関心一つによって、一言の祈りによって、一人でも多くの人が生きられますように。

創造主の目的、創造の目的の核心は、毎日万物を愛すること。毎日人間を愛すること。毎日神様、聖霊様、御子主を愛すること。
毎日食べるように、毎日寝るようにしなさい。洗うように、体を洗うように毎日しなさい。

鄭明析牧師の御言葉より抜粋