こんにちは(‘ω’)ノ
もう7月最後の土曜日…!?ということにとてもびっくりしています。
時の流れが速すぎる( ;∀;)
思い返すと今月は、個人的にはとても苦い月でした。
というのも、ずっと心がひん死状態でした(-_-;)
具体的に言うと
・無気力
・慢性的な疲労
・すべてにおいてやる気がない
・本を読んでも、御言葉を読んでも、頭に入ってこない
・ベイマックスにしか心が反応しない
・何やっても嬉しくない(ベイマックス見る以外)
…という感じで、とにかく心が死んでました(-_-;)
原因はよく分かりません(;^_^A
今週になってようやく少しずつ回復してきたものの、御言葉も聞きたくないし、聞いても寝ちゃうし、「長い!!」(説教が時には2時間以上ある)って思ってイライラして全然頭に入ってこないし、霊的にも力を受けられなくて沈没していました。
そんな自分に対して自己嫌悪。
そして自分を責めてまた力を落とすという悪循環を辿っていました。
自分を無意識のうちに責めていたのも、力を落としていた原因の一つだったとは思うのですが、無気力状態の根本的な原因は未だ不明です。
とにかくきつかった2020年の7月でした(´_ゝ`)
とはいえ、きつかっただけでは終わりませんでした。さすが神様。
今回の不調を通して、とんでもない考えの癖を一つ見つけることができました。
何かというと、教会でも「いい子ちゃん」「優等生」でいようと頑張っていた、ということです。
以前にも何度か記事を書いたと思うのですが、私は、家でも学校でも職場でも、「いい子」「優等生」=「他人に手をかけさせない子」として生きようと努力し、時には自分の本音を殺して、自分を偽って生きてきました。
今までの生き方そのまま。治ってなかったってことですね。
教会というコミュニティにおける「いい子」「優等生」とは何でしょうか?
私も改めて考えてみましたが…自分が目指そうとしてたのがあほらしくて笑ってしまいましたw
私がイメージしていた「いい子」「優等生」ちゃんは、明け方毎日礼拝参加して、日曜・水曜の御言葉最初から最後まで超集中して、恵み深く聞いて、核心バッチリ捉えられていて、要約を上手にできて伝えられて、熱心に伝道、講義、管理を喜んでして、運動毎日していて、体力があって、料理も上手で、話が上手で、超悟っている人、御言葉をしっかり正確に分かっている人で、人格的で、いつも笑顔で明るく人望がある人…みたいな感じでした。
そんな人もキリスト教福音宣教会の全国の教会の中に数人はいらっしゃるのかもしれませんが、
そんなん目指してたら正直疲れる…(ノД`)・゜・。
ていうか、
楽しくないし苦しい((+_+))
しかし私は、そんな「いい子」「優等生」を、無意識のうちに自分に強要していて、できない自分を責めて、自分で自分を苦しめていたのです。
無意識って怖い(>_<)
そして、自分のストイックさにもびっくりするw
はっきり言及しておきますが、誰かに「いい子」「優等生」になるように言われたことは一度もありません。
私の生き方がそうなのです。
でも今回の苦しみで痛感しました。
この生き方辛いし疲れる(;´Д`)
何より楽しくない。
ではどのような信仰生活が「理想的」なのでしょうか?
最近、こんな御言葉がありました。
神様に支え、愛し、喜び、楽しくやることも楽しいと思ってやらないと、楽しくないとできません。楽しいと思ってやらないと。それを悟ってこそ、できます。
楽しみで面白く思って、すべてのことをしなさい。楽しいと思って。
そうすべきであって、楽しく思ってやらないと、神様も顔をしかめます。「そんなにやりたくないのに、やる必要ないよ」と。むしろ、「そんなに嫌々やったら、すごく気にかかる」と言われます。
だから、神様に支えて喜び、お支えすることも楽しんですべきです。そういうことを悟らなければいけません、喜びの法則。
鄭明析牧師の御言葉より抜粋
神様は、神様を信じて生きることも楽しくやってほしいそうです。
無理矢理とか、「いい子」「優等生」、また「うまくできる子」を求めているのではなく。
この御言葉を聞いてから、私の心が徐々に生き返ってきました(;^_^A
変に肩の力を入れなくなったというか。
御言葉も「完全に理解するぞー一言も聞き漏らさないぞー」っていう姿勢から、「神様、今日は私にどんな話をしてくださるんだろう?私とどんな対話をしたいと願っていらっしゃるんだろう?」
という感じで、もっとリラックスして聞けるようになりました(;^ω^)
もちろん、前者の姿勢も大事ですけどね。
でもどんな心でやるかが大事。
要は、私は最近「神様が好きだからやる!」的な、神様への愛で行なっていなかったから、力が抜けまくってたようです。
いつも、どこに行っても自分のことを管理してください。自分を顧みなければいけない。あまりにも自分を顧みないのは駄目です。
自分も食べてこそ、他の人のために生きることができる。自分が倒れて、どうやって人を助けますか。
自分が絶壁から転げ落ちているのに、どうやって人を助けますか。だから、自分のことも顧みて、自分を悟りなさい。それでこそ自分を顧み。
自分のためにも生きてください。他人のためだけに生きるのではいけません。自分のために生きないと。自分を知りなさい。
自分がすべきことをいそしんで走ってやらなければいけないのです。
「ああ、なかなかやる気にならない、できる気がしない」と思ってはいけません。やっていけば技術者になっていきますから。
鄭明析牧師の御言葉より抜粋
誰かによく見られたいとか、認めてほしいとか、そういう邪な心ではなく、純粋に神様を愛して生きる、本当の神様の愛の相手になりたいなと、この記事を書きながら思いました(´ω`*)
ちょっとずつ生き返ってきたので、頑張りすぎないで適当に程よくいきます(・ω・ノ)ノ