怒りをコントロールすることと我慢することは違う

信仰の経緯

最近、仕事が忙しくてイライラしています。

仕事でかなり疲れてしまい、ずっとイライラしています。

けど聖書では、「怒り(=血気)」は悪いこととされています。

なので、私はよく「怒っちゃダメだ、怒ったら主の人格ではない」と思って怒りをなんとか抑えようとするのですが、

いや、ムカつくものはムカつくんだよなぁ。

と思って、どうしたらいいか悩んでいました。

元々感情を殺してしまう癖が強いので、逆に出す練習をするように、ずっとカウンセラーから指導を受けていることも心に引っかかっていました。

怒りを表に出さないようにすると、今までと同じことをするだけなので、自分にとってよくないかなぁと思いました。

そして、いくら「血気はだめ」といわれても、腹立つもんは腹立ちます。

ということで、「怒るなって言われても無理です。イライラするものはイライラします」と正直にイエス様にお祈りしました。

そうしたら、ふとこんなことを思いました。

「怒りをコントロールすることと、我慢することは違うなぁ」

どういうことかというと、怒りの原因を主に打ち明けて話すことと、押し殺して我慢することは違うということです。

表に出す出さないは関係なく、怒っている時点でもう主は私の心をご存知です。
「この子プンプン怒ってるぞ」と。

そこで主に何も言わずに、自分1人で「あぁ〜怒っちゃだめ怒っちゃだめ!性格を治さなきゃ〜」と感情を否定して我慢するのでは、心の健康的にかなりよくないですよね。

自己否定にもつながりますし、結局怒りの感情はまだ自分の心に残っているので、そのままだと溜まってしまうと思います。

だったらむしろ、私はイエス様に自分が怒ってることを祈ってお伝えした方がいいのではないだろうかと思いました。

なので最近は「これこれこういうことで怒っています!とてもムカつくのですがイエス様どう思いますか!?」と正直に話しかけています。

話すと不思議にも、怒りが自然とおさまることが多いです。

「いや、これそんな怒ることでもないか〜まぁ〜人間誰しもが欠点のひとつやふたつあるよね」と思えることが多いです。お祈りはすごいです。

とはいえ、私はまだ心を広く作れていないので、ムカつくことが何度も続くと怒りを覚えます。

こんなことを言ったら信仰者として怒られるかもしれませんが、怒りを全くなくすというのは、人間には無理だと思います。

というか、イエス様も怒る場面では怒ってますし。

「さて、ユダヤ人の過越の祭が近づいたので、イエスはエルサレムに上られた。 そして牛、羊、はとを売る者や両替する者などが宮の庭にすわり込んでいるのをごらんになって、 なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追いだし、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえし、 はとを売る人々には「これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな」と言われた。」

ヨハネによる福音書‬ ‭2‬:‭13‬-‭16‬

すべての怒りがダメということではなく、神様が遣わした人と一体にさせなくさせる怒りはダメなのかなと思います。

言い換えると、神様やイエス様と質が違う怒りと言えるかもしれません。

合理化していると言われたら言い返しにくいのですが、神様(愛する人)のことを悪く言われているのに怒らないのは違うよなぁと思っています。

何より「怒りを覚える自分」を責めると、自分がつらくなるし、自分のことがどんどん嫌いになります。

なので怒りは「我慢」するのではなく、「神様とイエス様にお伝えする」ことでコントロールし、おさめていくのがいいなと思いました。

怒りと上手に付き合っていきつつ、いつか寛容で広い心を持てるように頑張ります。