鄭明析(チョン・ミョンソク)牧師(以下「先生」)に対する裁判の第2審が始まりました。
今回は、起訴内容は事実なのか?という点について思っていることを書こうと思います。
起訴内容はそもそも本当なのか?
今回の裁判では3人の女性が「先生から性暴力を受けた」と告訴しています。
その中のある1人(以下「Aさん」)は、2018年2月から2021年9月までの間、合計17回性被害に遭ったと訴えています。
その途中である2020年2月から3月にかけて本人が書いた自筆の日記があり、裁判でも使われています。
※裁判で本人が自分の日記であると証言しています。
その日記を読むとそれ以前に性被害があったと窺わせるような記述もなく、むしろ本人が「霊的な愛」と「肉的な愛」の間で葛藤していたことが分かります。
「霊的な愛」と「肉的な愛」について
そもそも「霊的な愛」と「肉的な愛」とは何でしょうか。
あまり聞きなれないであろう「霊的な愛」から説明します。
「霊的な愛」とは精神的な愛、アガペ的な愛をいいます。
神様は肉体がないので、人間と性行為はできませんよねw
イメージとしては遠距離恋愛に近いでしょうか。
目に見える形で会えないけど、恋人に思いをはせる、いつも関心を持つ、相手のことを考える、相手が願うことをするというのがキリスト教福音宣教会でいう「霊的な愛」です。
脳・考えの愛ともいえるかもしれません。
ソウルでつながっている的な…言葉で説明するのが難しいのですが、霊と霊でする愛です。
そこに肉体関係は入っていません。神様は霊の存在で肉体がないので、何もできないですからね。
「肉的な愛」はその逆で、キスをする、抱きしめる、性行為をするといった、おおざっぱにいうと身体的接触を伴う愛、エロス的な愛をさしていることが多いです。
キリスト教福音宣教会の説教は「神様とイエス様を愛すること」が核心で、神様とイエス様を「霊的に」愛することによって救われるということを学びます。
そのため先生は「霊的な愛」について、つまり「どのように私たち人間が霊である神様とイエス様を愛するのか」についてたくさん教えてくださいます。
「肉的な愛」、つまり性行為をしてこそ救われるという話は聞いたことがありません。
告訴人たちの証言には矛盾がある
日記に見える矛盾
Aさんは日記の中で「毎日、毎時間抱きしめ、口を合わせて(つまりキスをして)、話して生きることがまったくないから…。先生が出てこられてから(※)、その前に想像していたことの一つも成されず」と書いていて、先生に対して「肉的な、性的な愛」を本人が想像していたけど、それが一つもなされなかった、と自ら日記に書いています。
※2018年に先生が獄から出てこられたときを指しているかと思われます。
Aさんは「キスや抱きしめたりもできず、いつもくっついて生きるようではなく、考えるとおりに成し遂げられるといっても私だけ想像するよう」と書いており、先生との性的な関係を本人だけが想像していたことを告げています。
また「恋人なら二人だけいなければならないのに、どんどん他人をもっと愛されているようで…ただ嫌いです…」とも書いています。
これを読むと自分が考える「肉的な愛」、先生との特別な身体関係を期待していたけど、それが成されなかった、すなわち先生との間で性的な接触がなかったことを裏付けているのではないでしょうか。
被害に遭った場所は○○?
Aさんが性被害に遭った場所の例として、「316館の応接室だ」と主張しているそうです。
しかし、そこはガラス張りで外からも十分見える位置です。
裁判官は現場に来たこともなく、その場所の特徴を理解しないまま裁判を進めています。
本当に密閉空間で先生と先生に許可された人以外は入ることができない、外からは中の様子が全く見えない場所なら話は別です。
私も316館の廊下から応接室の中を覗かせていただいたことがありますが、ガラス張りなので
中の様子は丸見えです。
廊下で人が通れば絶対気づきますw
私だったらあの部屋で性暴力をしようとは思わないですね。
証拠の音声ファイルの原本がない
Aさんは、2021年9月に性被害に遭ったときに録音していた音声ファイルだといってそれを検察に提出し、検察はそれを証拠として裁判所に提出しました。
しかし、その音声ファイルを裁判で聞こうとしたら、iCloudに保存していたファイルが削除されたため再生できなかったり、録音したときに使用したスマートフォンは売ってしまって原本が存在しなかったりと、不可解な点がありました。
虚偽の内容を主張している
今度はAさんではなく別の告訴人(以下「Bさん」)の話もみてみます。
Bさんが性被害に遭ったという日時には、先生と2人でいる状況ではなかったことがわかっています。
先生は、ご自身がスポーツをしている様子などを撮影して記録として残すことが多々ありました。
そして大概は大勢の人に囲まれながらテニスやサッカー、バレーボール、室内で卓球など、さまざまなスポーツをされていました。
その映像を見ると、Bさんが性被害に遭ったという日時に、Bさんが大勢の人たちと一緒に先生が卓球をしている様子を見ていたのです。
全然2人きりではないし、先生スポーツしてるやん。
けどBさんは「この時間帯に性被害に遭った」と主張しているそうです。
2人はもちろん他の人たちもみんながっつり洋服を着ているし、何より映像が「(Bさんが主張する)日時に性被害に遭った」という話が嘘であることを示しているのではないでしょうか。
このように、告訴人たちの証言には矛盾がありますが、これらの矛盾の確認は行なわれないまま、先生が有罪であるという前提で裁判が進んでいます。
しかし、矛盾がある証言が本当に事実として扱われていいのでしょうか。
裁判の進め方に甚だ疑問を抱きます。
まとめ
・「霊的な愛」と「肉的な愛」は違う
・告訴人たちの証言には矛盾がある
今回は大きくこの二つのポイントに絞ってみました。
毎回いって申し訳ないですが、私は性暴力は断固反対派です。
加害者にはしっかり罪を償ってほしいですし、被害者が泣き寝入りするような事態にはなってほしくありません。
同時に、冤罪で罪のない人の人生が狂ってしまうことがないようにしてほしいです。
公正・公議な裁判となるよう、ただ神様とイエス様に願い求めます。