イエス様を推す理由、勧める理由

CGM/鄭明析牧師

先日伝えられた説教で、鄭明析(チョンミョンソク)牧師(以下「先生」)が神様と通じ合うためのコツを教えてくださいました。

それは心情、つまり気持ちを分かって話すことです。

人間同士でも相手が気持ちを分かってくれなかったり、自分の意見に耳を傾けようとしなかったりすると、多かれ少なかれ傷つきますよね。

あまりにもひどいと「もうこの人に話すのはやめよう」とすら思ってしまう場合もあると思います。

逆に気持ちを否定せず「そう思ったんだね」と受け止めてくれる人や話を聞いてくれる人には、安心感を抱いて「また話したい」と思いますよね。

神様も同じで、神様の気持ちを分かってくれる人とはよく通じるそうです。

心情を分かることによって、神様でも人間でも一気にぐっと距離が縮まるのが伝わる話だなと思いながら聞いていました。

続けて、先生はイエス様について以下のように話されました。

イエス様はその時代の貧しい人、病人、苦痛を味わっている人たちの中に飛び込んで一緒に暮らしながら、神様の御言葉を伝えて、彼らを救ってくださいました。救い人は神様の御言葉を伝えて回るだけではありません。彼らの苦痛が分かるから一緒に暮らして、彼らの苦痛を共に感じ、味わいながら、助け、救ってあげます。ほかの人は分かりません。感じられないから、助け、救ってあげることは考えることすらできません。イエス様は苦痛も貧困も痛みもすべて味わいました。実際に一番底辺で生きた貧しい方でした。分かるから、彼らに手を差し伸べて救いの歴史を広げたのです。同じく苦痛の中で生きることをなさらなかったなら、苦痛の中で生きる人の心を分からなかったでしょう。イエス様は実際にその苦痛をすべて味わって分かるから、娼婦たちのことも、貧しい人たちのことも、さまざまに苦痛を味わう人たちのことも真実に憐れみ、ご自身の体よりもっと顧みて、食べ物も与え、一緒に食べ、一緒に苦痛を味わいながら歴史を広げました。

鄭明析(チョンミョンソク)牧師の説教より抜粋

このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、 死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。 確かに、彼は天使たちを助けることはしないで、アブラハムの子孫を助けられた。 そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。 主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。

ヘブル人への手紙 2:14-18

何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。 おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。 キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。

ピリピ人への手紙 2:3-6,8

確かに福音書を読むと、イエス様は御言葉を伝えて回るだけではなく、偉い人たちのところにばかり行ったのでもなく、むしろ苦しんでいる人たちのところに行かれた様子が多く記録されています。

イエス様はメシヤです。地球世界で人間としてそれ以上高い人がいない、最高の存在者です。このようなイエス様が弱い人、貧しい人たちを真実に愛して祈ってあげ、助けたことが、お金儲けをしようとしてしたことでしょうか?

(マタイによる福音書9:11~13)『パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。』

鄭明析(チョンミョンソク)牧師の説教より抜粋

私はこの聖句がとても好きで、落ち込んだり自責してしまったりするたびにこの聖句を思い出して力を受けます。

「私のようなだめな人にこそ、イエス様が必要なんだ。だから来てくださったんだ。だから私がイエス様をぎゅっとつかまないと!」と思って立ち直れます。

メシヤ、キリストという高いところにいる方でありながら、弱い人、病気の人、飢えている人の気持ちが分かって寄り添えるってすごくないですか?

推せます。

イエス様は肉体を持っていらっしゃるので、叩かれたら痛いですし、切られたら血が出ます。

食べられなければ飢えて苦しいです。

記録には残っていませんが、肉体を持っているので病気にかかったこともあったと思います。

だから私たち人間の気持ちがよく分かる方です。

キリストという権威に溺れることもなく、傲慢になることもなく、ただひたすらご自身は低くなりながら寄り添ってくださる姿が好きです。

叱る時は叱ってくださることもするけど、基本的に否定せず見捨てないというスタンスに安心します。

当時、イエス様に出会って信じて従った人たちも、イエス様の人格に惹かれた部分があったのではないかなと推測しています。

もちろん、神様の御言葉を伝えてくださるし、それによって自分の人生の問題が解けるからというのが1番の理由ではあったと思います。

けどやはり「この人とは合わないな」と思ったらずっと側にいることは難しかったのではないでしょうか。

それは今も昔も変わらないと思います。人格も大事ですよね。

自己否定的な謙遜さではなく、自分の価値も分かっていて自分自身のことも愛したうえで謙遜さも兼ね合わせている人、私はとても好きです。

二次元でもそういうキャラクターがいたら好きになりがちです。

ましてやイエス様は実在の人物なので、かなり推せますね。

好きです。

私は、信仰を持つ前は宗教勧誘に対してよくないイメージがありましたが、今になって思うことは

「推しを勧めるのと似た感覚なんだよなぁ」

です。

自分の推しを他人に勧める時も、相手が嫌がっているのに無理やり推させることはできません。

「よ、よければ映画見てみてくだされ…デュフフ」と勧めることはできますが、その後の行動まではコントロールできないですし、するものでもありませんよね。

勧められた本人の自由意志です。

宗教も同じで、相手が嫌がっているのに無理やり信じさせることはできません。

『ベルサイユのばら』の主人公、オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ様がいうように、人の心に命令はできないから!!です。

「人の心に命令はできない」、私の座右の銘の一つです。

けど、推しが好きで好きで他の人にもよさを伝えたいから勧めるのと同じ感覚で、イエス様や神様もよいからおすすめですぞデュフフ的な行動をするわけです。

それが「宗教勧誘」なのだな、と自分が信仰を持ってやっと理解できました。

無理やりはダメ、絶対、とは思いますが、勧める側の感覚としては(もちろん個人差はあると思いますが)、内容に違いがあるだけで似た感覚だよな~と最近思っています。

推し活でも「布教する」という表現を使いますしね。

ただ、宗教の布教と推しの布教は決定的な違いがあると思います。

宗教の勧誘の場合、無理矢理もしくは脅しに近い勧誘をするケースがあることです。

SNSを見ていると、過去に宗教団体に強めの勧誘を迫られて怖い思いをした方が結構いらっしゃる印象です。

トラウマになっている方もいらっしゃると思いますし、トラウマまでは行かなくてもやはり怖い思いをされたと思います。

私も街中を歩いている時、急に女性に「イエス様がもうすぐいらっしゃる!信じなさい!」と叫びながらしばらく後をつけられたことがありました。

私はその時既にキリスト教福音宣教会にいたので、「知ってるわ」と思ってガン無視して乗り切りましたが、それでも不快な気持ちになりました。

霊のことを考えると信じた方がいいとは思いますが、無理矢理だったり、押し付けたりするのはアウトだと思います。

けど、悲しいことに宗教の勧誘方法はそういうケースが多いのも事実で、布教したくても慎重になる必要があると思いますし、何より本当にそこは相手の気持ちをしっかり尊重して、相手が嫌がる姿勢を見せたらすぐに話をやめるくらいの配慮が必要だと思います。

私自身、会員以外の人に接する時、基本的に自分からは宗教的な話はしないように気をつけています。

宗教観が分からない相手に対しては特に気をつけています。不快な気持ちにさせたくないからです。

そういう話題でもまったく気にしないよ、という人に対しては別に隠してもいないので話すこともあります。

そういうスタンスなので、私は当ブログでこういう宗教的な話もたくさんしていますが、押し付けるつもりはありません(ブログのタイトルにがっつり宗教的な単語が入っているので、嫌な方はUターンしてくださっていると信じています)。

「好き!」や「よき~!!」という気持ちが溢れて書いています。

好きな気持ちを1人で心の中でため込むことはつらいじゃないですか。

溢れちまうじゃないですか。

先生の裁判やキリスト教福音宣教会について書くのも、「悪い話は真実ではない!!」という悔しい思いや無念な気持ちが溢れるから、伝えたいから書いています。

推してるからよさを伝えたい、オタクの性です。

無理矢理信じろ、入会しろとはいえないけど、荒ぶるオタクの気持ちを吐き出させてくれという思いで書いています。

今回も、説教を聞いて「あ~~~やっぱイエス様好きー推せる~!」というオタクの荒ぶった気持ちを吐き出すために記事にしました。

まとまらなくなってきたので無理やりまとめると、

推しっていいね。

推せる時に推しを未練なく推していきます。

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