今週の御言葉を聞いて、びっくりしたことがありました。
前回の記事「讃美が苦手な私が1日讃美10曲の条件を40日経てたらすごいことが起こった」でチラッと書きましたが、先週の水曜日に鳥の死体を見ました。
実は、その次の日も別の場所でねずみの死体を見たのです。
そのまた次の日に同じ道を通ったら、まだねずみの死体が放置されたままだったので、合計3日間連続で死体を見る羽目になりました。
「これ何の啓示(=神様からのメッセージ)だろう…
誰か死ぬのかな…自分が死ぬのかな…怖い…!!」
と思っていたのですが、今週の御言葉を聞いてはっきりと意味が分かりました。
正確に言うと、前回書いた通り「初めの行ない」が死んでいたんだなと解釈してはいたものの、なんかまだ他に意味がある気がしてもやっとしていたのです(;^_^A
それが今週の御言葉ではっきり解けました。
今週の御言葉の主題は「各自古いものをきれいに葬りなさい」でした。
御言葉の中でこのような話がありました。
古いものを葬りなさいということは「死体を地に埋めるように、火葬した灰を片付けるように、完全になくしなさい」ということです。
祈って肉性を死なせても、その死体を葬らなければなりません。葬ることとは何か?死体を葬る。完全に焼き尽くして火葬したように、二度と生き返らないようにすること、それが葬ったことだ。
死体を置いたまま、家で人が死んだ、その死体を置いたまま、家でお祝い事、婚宴ができるでしょうか?できません。
古いものを葬ってこそ、婚宴の歴史を続けることができます。
鄭明析牧師の御言葉より抜粋
なんと御言葉の中で、ドンピシャで死体の話が出て来て、ものすごくびっくりしました(笑)。
同時に「このために死体を見せてくださったのか!」と納得しました。
悟ってみると、この「死体を葬りなさい」の意味がとても深かったです。
すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
ローマ人への手紙6:4
この聖句を基に「各自、まだ古いものが生き残っていたら、死なせて、葬って、キリストと共に生き返った生を生きなければなりません」という話をしてくださり、死なせたならば「完全に焼き尽くして火葬したように、二度と生き返らないように」しなさいという話をしてくださいました。
ポイントは「死なせる」でとどまらないで、「葬りなさい」というところです。
死体が放置されているのを見て思ったのが、とにかく「気持ち悪い」「早く片してほしい」でした。
死体が放置されていたら誰でも気持ち悪いですよね(;´・ω・)
火葬して土に埋めて完全になくすところまでして、初めてすっきりした気持ちで前に進めるんだなって、悟り深かったです。
「捨てるべきもの、持っていても仕方ない自分の矛盾を死なせたところまではよくやった。
けど、死体を放置しておいたら気持ちが悪い。早く完全にすっきりときれいにしなさい。葬りなさい」
までがすべきことなんだなと。
死体、いろんなものが、この行ない、自分中心、自分中心の思考、全知全能なる神様の前で、そういうものはすべて死んだ行為だ。それが役に立つのか?自分が損するばかりだ。
そういうものを、祈ることで悟ってなくしなさい。そうしたら、死体を火葬して灰にしてなくすことと同じだ。
鄭明析牧師の御言葉より抜粋
実物の死体を見たので、この御言葉の意味がとてもよく分かるというか、神様がこうおっしゃる理由がすごくよく分かりました。
人間は自分の矛盾や間違った考え、思考を「死なせる」ところで満足しがちだけど、神様的にはそれは死体を放置しているのと同じで、そこに終わりにしてはいけないんだな。
ちゃんときれいに全部葬らないといけないんだな。
というのを実感するしかありませんでした。
死体を放置せず、ちゃんと全部葬りたいですね(;・∀・)
御言葉をより分かりやすく実感できるようにしてくださった神様に感謝します\(^o^)/