最近、キリスト教福音宣教会の会員たちと話す度に、思うことがあります。
それが何かというと「『良い子ちゃんお祈り』をする人多いな」ということ。
「良い子ちゃんお祈り」は私が勝手に命名したのですが、「御言葉で神様が~とおっしゃっているから、そのようになるようにしてください!」という祈り方を指しています。
あとは「『落胆するな』とおっしゃったから、落胆せずに頑張ります!」と祈りながらも実際は結構落胆しているとか。
私はこのような【本心】と【実際に口に出す言葉】に差がある祈りを「良い子ちゃんお祈り」と呼んでいます。
私もよくやってしまうので気持ちはとても分かるのですが、個人的にはこういうお祈りって神様とあまり通じないなというのを感じています。
日本人の会員は真面目な方が多いので、御言葉で「~しなさい」と言われると「~します!」と素直に言うけど、心の奥底では負担を感じていたり「御言葉でこうおっしゃっていたから、逆のことを言ってはいけない」と思い込んだりして、本心を飲み込んでしまう人もいます。
もちろん全員がそういう祈りをしているわけではないし、良い子ちゃんお祈りをする人でも本心を話せるときもあると思います。
とはいえ「神様の前でこんなことを言ってはいけない」と考えて本心を飲み込む時があるのも事実です。
私もやってしまうことが多いので気持ちはよく分かるのですが、やはりこういう祈りって自分もモヤモヤするし、神様と通じる感じがしませんよね。
「こう祈らなければ」「こう祈るべき」という考えにとらわれて1時間祈るよりも本心で祈る10分の方が祈った充実感もあるし、神様に届く気がします。
なのでやはり個人的には、本心でする本音の祈りの方がおすすめです。
このようにわたしたちは、あわれみを受けてこの務についているのだから、落胆せずに、恥ずべき隠れたことを捨て去り、悪巧みによって歩かず、神の言を曲げず、真理を明らかにし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦するのである。
コリント人への第一の手紙4:1-2
恥ずかしいと思っても告げて、罪も告げて、なんでもかんでも話せる仲が夫婦として正常だといえるのではないかなと思います。
私は「御言葉ではこうおっしゃったけどやりたくないです!」「納得できないです!!どうしてだめなんですか!」とかわりとなんでもかんでも神様に言います。
神様は心をご覧になるので、隠しても意味がないからです。
「考えていることは既に筒抜けなんだから、いっそ話してすっきりした方がお互いにとってよくない?」というスタンスです。
犯した罪もバレバレなので、隠しても意味がありません。
「御言葉が豊富なのはうれしいし感謝ですが説教が長くて疲れました」なども私は神様に言ってしまいます。
神様の前では「こんなことを言ったらだめだろうな」はないと思っています。
どうしてかというと、鄭明析(チョンミョンソク)牧師がそういう祈りをなさるからです。
「え!?そんなこと言っていいんだ!?」という祈りをされることが多いのです。
たくさんある例の中の一つにすぎませんが、ご参考までにご紹介します。
先生がある日、イエス様が行なわれた様々なことが、本当に理解できないと言いました。するとイエス様は「何が理解できないのか」とおっしゃったので、先生は「イエス様はメシヤなのに、次元が低い人たちを近くしてくださり、病気の人たちを治してくださり、飢えている人たちを顧みてくださり、精神病者、気が狂った人、娼婦たちや乞食たちにも時間を出してくださいました。このような人たちのことは弟子たちに任せて、その時間に新約歴史をもっと大きく広げればよかったのに、どうしてそうなさらなかったのですか?」と尋ねました。
鄭明析牧師の説教より抜粋
そうしたらイエス様は「あなたも私のようにやってみなさい。そうしたら理解できる」とおっしゃいました。
とても純粋で神様にまっすぐ向き合う牧師の人柄がよく表れている行動の一つだと思います。
牧師が包み隠さず神様の前に進み出ていく姿を見て、私も神様に対して真実な人でありたいなと思うようになり、見習うよう心がけています。
「御言葉の方向性に合わせて~について祈らないと!」というときもありますし、それももちろん大事なのですが、根本的には本音の祈りが1番効果があるな~と感じる日々です。
心は水と同じでため込むと腐るので、「こんなこと言ったら怒られる」と思わないで吐き出した方がいいと個人的には思います。
「良い子ちゃんお祈り」から抜け出して、本音お祈りにぜひ挑戦してみてほしいなと思いました。
あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。
コリント人への第一の手紙10:13