仕事をしながら
日々生活しながら
いつもぶつかる問題。
完璧主義。
故に、少しできないと自分を責める。
余計にコストパフォーマンスが下がり
体調も崩し
否定的な考えにも襲われて
余計全てが悪循環に陥る。
分かっているのに治せない。抜け出せない。
自分も辛いし、周りにも迷惑をかける。
それでもやめられない。笑
このように、変えたいけど変えるのが難しい部分
誰にでもあるのかなと思います。
ちなみに御言葉ではこのような表現をしていました。
人は見た目どおりに、形どおりに味を覚えたら、その形ばかり好む。それに慣れて、『習慣』になり、『体質』になる。
それが<いいこと>であれ、<悪いこと>であれ、味を覚え、慣れたとおりに好むから、それを諦めるだろうか?
各自「味を覚え、慣れたとおりに」好んで生きる。
<死ぬこと>ぐらいに<直すこと>を嫌い、<生きること>ぐらいに<慣れたこと>を好む。
鄭明析牧師の御言葉より抜粋
アーメンとしかいいようがないくらい、適切だなと思いました。
完璧主義の性格を直したいと思いつつ、いざ直そうとすると
<死ぬこと>ぐらい嫌がっている自分に対面するのです。すごく矛盾してますが(;^_^A
しかし最近、完璧主義って本当に損だなと感じたことがたくさんあります。
その中で主に2つ、悟ったことを書きたいと思います。
※以下、あくまでKokoro個人の見解なので、「ふーん」程度に読んで下さい
①感謝する機会を失う
完璧主義は、どこまでやっても満足しない。
うまくできても「もっとうまくできたはず」
うまくできなければ「もっとこうすべきだった、あぁ本当に自分は足りない!」
という考えに陥りやすいのかなと思います。
しかしこうしているとですね、
「100%完璧にできなければいけなかったかもしれないけど、
一旦はなんとか丸く収まるくらいにできたから感謝だ」
とか考えられないんですよね。
もっとうまくできたかもしれないし、もっと良い方法があったかもしれないけど
周りがたくさん助けてくれて、自分の足りないところを補ってくれたから
その上に自分も努力したからその段階にまで至れただろうに
そのことを考えられず、「うまくできなかった」ということ一つしか考えない。
だから周りに対して感謝する機会を失うし、
頑張った自分をほめてあげることもしないから
モチベーション下がりますよね。
だから結局、頑張ったわりには力が抜けるというか
残るものが少ないのかなとか最近ふと思いました。
②できない人の気持ちを理解してあげられない
完璧主義だと例えテストで100点取ったとしても
「ふむ、まぁまぁ今回はよくできたな。でももっと効率よく勉強できたかもしれないな…」
という感じでどんどん上の上を目指し始めるし
100点とれず98点とかだったら
「うわぁ、勉強が足りなかった!もしくはテストの時もっと注意していれば!
こんなミスをしてしまうなんて…わぁ、悔しい!」とか
<できないこと一つ>だけに目が行きがちです。
<よくできた>部分はガン無視です。完璧であることが目標だからです。
真っ白な布に黒い小さなシミ一つがあったら気になります。それと似た感覚なんだと思います。
しかし、これはコミュニケーションに大きな支障をきたすのではないかと
最近思い始めたのです。(今更だとは思いますが…)
どうしてかというと、先ほどの例で続けると、ある人がテストで70点とれたとしても
「え、それくらいできて当たり前でしょ?( ゚Д゚)」って思っちゃうんですよね。
だから口先では相手のこと褒めたとしても、正直建前で言ってる気がします。
これは私が誰かにやられてそう感じたのではなく、自分自身がそうしてるなと感じたのです。
褒めてはいるつもりなのですが、心から褒めてあげられてない気がする…というような
罪悪感を感じるようになってきたんです(;^_^A
(そう感じるのも完璧主義からきているのかもしれませんが)
仕事でも、過去の試験問題の正答率を見た時
「どうしてこの問題を解けないんだろう」と
いくら考えても、英語ができない子の気持ちがわからなくて
とてもとても困りました。
この経験を通して、この2つ目の弊害を悟るようになりました。
立場を変えて考えてみたら、上記のKokoroの疑問は
理科や数学ができる人ならちょちょいと解ける問題を
ド文系頭のKokoroは絶対解けないし(笑)、どうして解けないのか聞かれても
自分も何がわからないのかわからない(笑)ので答えられない。
というのと同じことです。
だから英語に限らず、Kokoroが簡単にやることをできない人のことを
否定しているわけでは決してありません。
立場を変えれば理解できます。私も人のこと言えません。
しかし、常に自分に対して「完璧」を追い求めているから
人に対しても無意識のうちに「完璧」を求めている!?
のではないかなと感じ始めました。
脳は一貫性を持たせようとするという話を聞いたことがあるので
「無意識のうちに」自分に対してしていることは相手に対しても
やってしまっているのかなと…。
完璧を目指すということは、言葉を変えれば向上心があり
常に自分を点検し、問題点を見つけ、対処して乗り越えていく
どこまでも発展していけるという良い点でもあると思います。
しかし、完璧を目指す<理由>や<目的>が何なのか
これによってよい方向に向かうか、悪い方向に向かうかが変わってくるのではないでしょうか。
人に認められたくて<完璧>でありたいのか。
周りから良い人だと思われたくて<完璧>でありたいのか。
馬鹿にされたくなくて、かっこよく思われたくて<完璧>でありたいのか。
深く考える必要があるのかなと思います。
また、自分がいう「完璧」は何なのか?それも見直すことが
完璧主義を抜け出す一歩になるのではないかと思うのです。
最後に、御言葉では「完璧」とは何だと仰っているのか
様々に定義されているのですが、一つだけピックアップします。
完璧な人、完全な人だということは、直した人、悔い改めた人だ。
人間が神と同等に神のように完璧にはなれない。 神と人間は別の存在だ。
神は太初から完璧な存在だ。
人間は自らでは完全になることができないが、 神の方法、神の御言葉を通して完全になれる。
三位は自ら存在する完全な存在であり、 人間は三位を通して完成できる存在だからだ。
人間も完全になれる方法がある。 たくさん直すことだ。すなわち、悔い改めることだ。
直すことは変化することだ。それによって、完全になれる。
悔い改める人は、毎日自分の矛盾を認め、知ることだ。 だから、早く変化できるのだ。
鄭明析牧師の御言葉より抜粋
自分なりの「完璧」を抜け出して
人に対しても、自分に対しても
人格的に接せられる素敵な人に
早く自分を直したいものです。