「私」が必要とされる意味

闘病の経緯

はろーです(/・ω・)/

 

実は去年12月、仕事が落ち着き始めてからずーーーーーーーっと(もっと前からかもしれない)

無気力。

なこころです。

 

無気力すぎて、もはやデフォルト無気力。

何もやりたくない。ただ休みたい。寝たい。

一週間くらい休暇とって何にもしないでゆっくりしていたいのです。

望みはただそれだけ。

 

いや、これではまずい。と思いつつ、なんせ無気力なため頑張る気にもなれない。

「もういっかー」と投げやりになっていたら、御言葉でしっかり怒られました。

 

しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった

そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。

ヨハネの黙示録2:4-5

 

この聖句を本文として、鄭明析牧師は今週「初めの感謝と喜び愛を忘れずに毎日行おう」という主題で御言葉を伝えてくださいました。

 

<貴重なもの>をもらっても、感謝し喜び好きで愛して生きなければ、享受できません。

例えば<金持ち>になって生きても、喜んで生きることができなければ、<普通に暮らして喜んで生きる人>にも及びません。

<物>も<家>も<環境>も<人>も初めて得たときは喜びが満ちて喜んで愛していたけれども、時間が経つと「甲斐」も少なくなり、「喜び」も「愛」も普通になります。

<信仰の生>もそうです。<神様と聖霊様と御子主>を愛の対象として喜びと愛で接して生きても、長く経ったら「価値」も失い、「愛」も覚めて、普通に接して生きていきます。

<初めの愛>も<初めの価値>も<初めの喜び>も忘れるな。忘れたら「成長が止まった生」になる。

鄭明析牧師の御言葉より抜粋

 

無気力状態でこの御言葉を聞きながら「やばーーーい」と焦りはじめ早一週間。

結果どうかというと、もう金曜日の夜なのに、正直まだ<初めの愛>を取り戻せていません( ;∀;)

 

絶賛無気力中。

 

だいたい、初めの愛をいつ忘れるか分かりますか?

結婚する人に聞いてみると、私はたくさん聞いてみるんですけれども、だいたい意見の衝突、考えの相違、合わなくて、考えが合わなくて、心が合わなくてケンカをします。性格の違いでケンカします。性格は自分の好きな通りにできます。自分の心だから、自分がどうするかにかかっています。よくすればよくなるし。悪くすれば悪くなる。

だから、いくら愛する恋人同士だとしても、性格が合わないとケンカします。だから、初めの愛をそうやって、夫婦も恋人も忘れてしまうのです。だから、「1000年も100年も一緒に暮らす」と言っても別れてしまうし、顔がすごくきれいでも嫌になってしまうのです。

神様と私たちの間も困難な時、患難な時、疎外感を感じて、「どうして助けてくれなかったの」と言う時に愛を忘れてしまいます。だから、そういうことがあっても「御心がある」と思って、どんなこと、あんなこと、こんなことがあっても神様がいらっしゃるから、御心があるから、心配ない。

<神様と聖霊様と御子主を奪われるか、遠ざける理由>は、一つ、「愛」が冷めたからです。二つ、「価値」を忘れたからだ。三つ、「主による喜び」を忘れたからです。

鄭明析牧師の御言葉より抜粋

 

<初めの愛>を失うのはどんな時かについても教えてくださった今週。

言われて振り返ってみると、神様に対してはなはだしい誤解をしていたこと、そして自分がかなり落胆していたことにも気づきました。

 

自分が勇気を出して願い求めてみたことに対して、なかなか話が進まなかったり、もっと切実に願い求めて頑張っている人達の話も聞かされて「あぁ私はまだまだだな」と思って落胆したり。

やりたいことはたくさんあるのに時間がないことに対しても落胆しました。

 

結果どこまで行ったかというと、

<「私」が必要である理由が分からない。>

というところまで落ちてしまいました。

 

あれ、おかしいな。浮上どころか落下してるぞ。

 

言い換えると自分の価値、権威、使命という単語につながるでしょうか。

 

元々小さいころから

「『私』じゃなくても姉がいるから『私』はいらないだろう」とか

「『私』じゃなくてもこの子は他にもたくさん友達がいるから大丈夫だろう」とか

「『私』じゃなくて他の人がいるから『私』は必要ないだろう」という考えを強くもって生きていたんですよねー。

 

今思うと「お前なんていなくてもいい。いらない」って言われるのが怖かったのかもしれないです。

人との関係はバッサリあっさり切れるタイプ。去る者は追わない。来るものは拒まないけど心を閉ざして生きてきたタイプだと思っています。

 

しかし。

今この記事を書きながら気づいたけれど、神様に対して同じ考え方を持っているのはまずい。

 

でもでも。逆説ばっかりだけど。

正直、「私」という唯一無二の個性体が求められている、という感覚が本当に分からない。

 

「こころちゃんは~~という才能があってすごいよ!」とか

「ディズニー詳しいね!すごい!こころちゃんいてくれてよかった!」とか言われても、

いやいや、~~ていう才能持っている人他にもいるし、私よりすごい人たくさんいるし、私必要なのか?

ディズニーももっと詳しい人たくさんいるし、霊的な話につなげてうまくトークできる人他にもいるよ?私である必要性はどこにあるの?」とか

すごく失礼でネガティブなことを考えてしまいます。

 

もっとよくできる人が現れたら、みんなそっちに行ってしまうんじゃないか。

私になんて、興味も関心も向けないんじゃないか。

 

そんな孤独感と恐ろしさが、私の心で黒い渦を巻いている。

 

…こんな黒いものがまだ心の中にあったとは。

 

自分の権威通りに生きなければなりません。それは権力を見せびらかせるとか、そういうことではないのです。自分の権威を、使命を大事に思わなければなりません。

将棋をする時も、王手があります。それは自分の権威だから。兵卒がいるところに行ったら食われてしまいます。何でもない兵卒に食われてしまいます。だから、自分の位置、その宮の宮殿の中で活動します。そこから出て行ったら兵卒に食われてしまいます。

だから、みなさんも価値を失わないためには、自分の主管圏、自分の価値の主管圏を失ってはいけないということです。

鄭明析牧師の御言葉より抜粋

 

「自分の価値を失うな」。

いつも牧師先生は、価値についての話をしてくださいます。

自分がどれほど貴重なのか。どれほど大きい人なのか。

誰よりも人間一人一人の価値をわかっていらっしゃる方だなと思うのですが

私の心はまだまだ頑なで、自分の価値を認めるのが難しいようです。

 

いつか納得できるようになるのかな。

 

本当は無気力すぎてブログを書く気すら起こらなかったのですが、急に思い立ってとりあえずキーボードをたたいてみました。

 

何を言いたかったのか全然分からないですが(笑)、とりあえず書いたぞ~。

無気力から少し復活できたかな( ;∀;)なんて。

 

よく分からない病み記事失礼しましたm(_ _)m

また思い立ったら書きます~。