御言葉を聞いても、神様の愛を学んでも、直せない自分の短所ばかりを見て「こんな私では神様に愛されないのではないか」と落ち込み不安になる時がたくさんあります。
「どうして自分はこうなのだろう」と落ち込み、気分が沈む時期が続きました。
そのような時に以下の聖句を基に、考えについての御言葉が伝えられました。
あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、
エペソ人への手紙1章18節
考えてこそ認識と考えの目が開かれて、すでにあるものもその時にはじめて正しくその価値を見つけ、得る。存在しているのに「ここにはない」と思ったら、一生得られない。このようにはじめから考えなければ考えの目が開かれない。
考えなければ、話してあげても分からない。考えるとしても正しく考えてこそ、考えと心の目を開いて得るようになる。神様と聖霊は完全に考えるように助け、思い浮かぶように助けてくださる。
鄭明析(チョンミョンソク)牧師の説教より抜粋
この御言葉を聞いて私は「神様に愛されない理由ばかりを考えていて、自分が愛される理由を考えていなかったかもしれない」と気づきました。
同時に「自分の長所はないとばかり考えていたら、一生見つけられないのだな」とも思いました。
私が鄭明析牧師(以下「先生」)の説教を推す理由がいくつかあるのですが、そのうちの一つが泥臭さです。
生々しさといってもいいかもしれません。
説教を聞くと、また実際にご本人に会った時も感じたのですが、先生はとにかく素朴な方です。
大勢の人の前でも飾らない、本当に純粋に神様とイエス様がくださった愛に感謝して喜んで証しながら生きている方だなと感じます。
その性格が説教にもよく表れています。
人の目を気にして変に飾るということはなく、過去の失敗談や幼少期の貧しさ、思ったこと、感じたこと、コンプレックスだったこと、できなかったこと、私だったら恥ずかしくて隠してしまうような話も隠さずに話されることが多いです。
そこから現在、先生がどのように変わったのかも話し、「あなたたちも神様の御言葉があれば変化できる」と希望を与える話をしてくださいます。
だからこそ説教を自分事として聞けますし、先生のことを身近に感じるし、「先生みたいに変わりたいな」と希望を持つことができます。そこが好きです。
今回の説教の中にも、私が深く共感する話がありました。
先生の故郷、月明洞(ウォルミョンドン)は、現在一年に数十万人が訪れるような場所です。
しかし、先生が月明洞を開発する前は索漠としていて、水も電気もなく、狭い山奥で何もなく、先生は故郷が大嫌いだったそうです。
けど神様に祈り求めて、神様の構想通りに開発することで、今は多くの人々が訪れる場所になったし、先生ご自身も月明洞が好きになったそうです。
先生がここ(月明洞)でこのすべての神様の御心を始めなかったときは、悪いところ、短所ばかりを見て否定した。同じ地形なのに悪いところばかりがたくさん見えた。だからいつも不平を言って嫌った。
つくって装い備えておいたら、今は誰も否定できず認め、「素晴らしい!」と感嘆する、最高によい場所になった。
このようにあなたたちも自分の環境が過去は苦労をする場所だったけれども、摂理史に来て神様が考えの目を開くようにしてくださって、そのような環境がもっとよく、長所となり、栄えるようにしてくださる。
鄭明析(チョンミョンソク)牧師の説教より抜粋
私はこの部分を聞いて、1人で号泣しました。
聖殿で説教を聞いていたのですが、周りは誰も泣いてなかったですw
どうして私が泣いたかというと、闘病生活をしていると通院や薬、カウンセリングなどで毎月結構なお金がかかり、時間もとられるし、症状に振り回されるしで、もう疲れちゃったし嫌になってしまっていたのです。
主治医曰く、波はあっても私は躁鬱ではないらしいですが、この時はうつ病の症状が特に強く出ていて
「健全な家庭に生まれていたらもっと違う人生だったのかな」
「小さい頃から神様を知っていたらうつ病にはならなかったかもしれないのに」
など、いろいろ過去の家庭環境や自分自身の性格を否定的に考えてしまっていました。
考えても過去は変えられないし、どうしようもないことはわかっています。
けど、ぐるぐる考えてしまう時ってありますよね。
ちょうどその時期にこの説教を聞いて、考えが変わりました。
落ち着いて今現在を見てみると、当時はつらかったけどあの環境だったからこそ、真理と天国と真実の愛を求めるようになったし、こうしてブログを書くようになったし、日本人に多いこのうつ病の苦しみを知ることができました。
「真理と天国と真実の愛を求めるようになった」というのはだいぶ大きくて、今の自分の根幹、ヒロアカ風にいうと「オリジン」にあたる部分が形成されたのは、あの環境下だったからだと思います。
「真実の愛ってなんだろう」
「私はどうして、何のために生まれたのだろう」
「本当にありのままの自分を見て、受け入れて、愛してくれる人に会いたい」
「どうして人は争うのだろう。いじめもない、誰も傷つかない、平和で穏やかな世界になるにはどうしたらいいのかな」
「どうしたらみんながもっと笑って暮らせる世界になるのかな」
そのような考えや「誰もが笑って仲良く暮らせる世界」への憧れは、平穏で穏やかで愛に満ちた健全な家庭では形成されなかったかもしれません。
つくられたかもしれませんが、今とは違った形だったと思います。
そう考えると過去は苦労する場所だったけど、だからこそ真理と天国と真実の愛を求めるようになったし、今こうして神様を信じるようになったし、過去の経験を活かしてブログやSNSで発信できるようになりました。
言い換えると、過去苦労した環境の長所が見えてきました。
神様を信じるからといって、苦しいことや大変なこと、つらいことが全くなくなるわけではなありません。
過去も変わりません。
では、神様を信じる利点は何でしょうか。
それは、考えが変わることです。
イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。 神の言を託された人々が、神々といわれておるとすれば、(そして聖書の言は、すたることがあり得ない)
ヨハネによる福音書 10:34-35
「御言葉」とは神様の言葉、すなわち神様の考えです。
神様の御言葉を聞いた人は、神様の考えをもらったことと同じだから、考えが神様と一体になります。
そういう意味で考えが神になります。
別にものすごい超能力が身につくわけではありません。
けど、考え方が変わると物事の見方も変わるわけで、過去や環境に対する見え方が変わるので、世界が変わったように感じます。
本当は何も変わっていませんが、物事の捉え方は考え方次第で天と地の差が出ますよね。
よく使われる例として、コップに半分程度の量の水が入っていて「もう半分しかない」のか「まだ半分もある」のか、あなたはどう捉えますか?
現実は変わらず、水の量も変わらないですが、どう捉えるかで受けるストレスはだいぶ変わりますよね。
過去についても同じことが言えます。
過去の事実自体は何も変わりません。
けど、自分の見方が変わると捉え方やそこから見出す意味も変わってきます。
だからつらくて恨めしかった過去に感謝できるようになります。
これが神様の大きな祝福だなと思います。
油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。
箴言4章23節
人は考えで生きていく。考えなければその面において死んだ人だ。忘れたら死ぬ。忘れたら死んだ人だ。考えてこそ、見ても分別し、それだと分かる。考えずには見ても分からない。考えて見てこそ正しく見える。
鄭明析(チョンミョンソク)牧師の説教より抜粋
聖書には「心(=考え)が命」だと書かれています。
そのくらい人間にとって考えが重要だということです。
考えを変えることはとても難しいですし、簡単には変わりません。
私自身、神様の御言葉を12年以上聞いていても(特に私は元々頑固な性格なのもあり)、変えられずに残っている昔の思考回路はたくさんあります。
それでもこうして自分の力でこれ以上前に進めない時、神様は御言葉で考え方を変えるヒントをくださって、抜け出せるように導いてくださいます。
今回も、いくらベイマックスを見てもパークの動画や写真を見て癒やされようとしてもどうにもならなかった部分に手をつけてくださり、見方を変えられるようにしてくださいました。
つらかったけど、自殺したいと思った時もあったけど、その過去を経たからこそ神様を信じることができて、今は感謝だし幸せです。
死なずに生きていてよかったと思えます。
自分は否定して消したいと思っていた過去も含めて、「今の私」を見て呼んで愛してくださった神様の愛の尊さに感動して、涙が溢れる礼拝の時間でした。
尊い!!!
自分もよくなるのに、考えを間違えて信じなければ、希望がなく、心配ばかりするようになるのだ。
否定的な思考ばかり持たないで、肯定的に考えなさい。
鄭明析(チョンミョンソク)牧師の説教より抜粋
神様が愛してくださっている自分、過去も含めて今ある自分のありのまま姿を、私も愛せるようにもっと努力しようと改めて思いました。
長くなりましたが、感謝も込めて神様に捧げる思いで記事にしました。
ここまで読んでくださりありがとうございました☆彡
また次回お会いできたらうれしいです(^^♪