人生生きるのに疲れたから好き勝手に生きようと思う

闘病の経緯

最近、慢性的に疲れています。

何をしても疲れがとれず、ずっと疲れている状態が続いています。

オンラインで教会の人たちとミーティングしたとき、比較的元気だった日でも「なんだか顔色悪いけど体調悪い?」と心配されてしまい笑いました。

残念ながらその日はわりと元気だったんですわ。

あまりにも疲れがとれなさすぎて、何に疲れているのか考えてみました。

そこで一つ思ったのは、いろいろな人と話す機会が一年間でたくさんあって、新しい人との出会いもたくさんあって気疲れをしたようでした。

ここで大事なのは相手に問題があるわけではないということです。

みんないい人たちだし、何かいやなことがあったわけでもありません。

純粋に私が人見知り発症+初対面の人にはどうしても気を遣ってしまう性格なので、1人で勝手に疲弊しただけです。

自分が問題なのです。

自分が自分のために行なうことです。絶対に神様に仕え敬い愛して生きてこそ、神様の民になり、神様の愛する対象にもなります。
いつも自分次第です。自分が禍と祝福の問題です。原因提供者です。自分の行ないに従って神様が報います。
他人によって問題が来る場合もありますが、大半の問題は
‐自分が無知で来るし、
‐自分がミスを犯して来るし、
‐また、技術がなく分からなくて来るし、
‐行なうべきことをやらなくて来るし、
‐神様と遣わされた救い人を信じなくて来るし、
‐自分勝手にやって問題が押し寄せる場合もあります。

鄭明析(チョンミョンソク)牧師の説教より抜粋

「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。
ヨハネの黙示録22章12節

では慢性的になるほど気疲れしてしまう原因は何かといえば、他人軸すぎることです。

人に合わせることもときには大切です。

けど、一般的な「正解」、「社会的にこうあるべきだろう」、「相手は今これを私に求めているだろうからこれを選ぼう」、「場の雰囲気がAに流れているから本当はBがいいと思うけどAにしよう」など、「自分がどうしたいか」ではなく「他の人がどう思うか」を基準にして意思決定をしていると自分の本心は押しつぶされるのでストレスが溜まります。

もちろん他人に合わせることもときには必要ですし、大切なことです。

相手の気持ちや意見をすべて無視して自分だけが好きなようにふるまうのは違うと思います。

かといって自分の本心を全く無視してふるまい続けると、自分でも自分の本心がわからなくなります。

自分の気持ちをないがしろにされている感じがして、無意識のうちに心がすり減ります。そうやって少しずつ原因不明(に想える)のストレスが溜まっていきます。

過剰なほど他人軸になる原因は、自信がないからです。

「自分の選択はいつも間違っている」

「これを選んだら『変わっているね』と<また>言われる」

「自分勝手にわがままにふるまったら嫌われる」、「空気読めないやつだと思われて、自分が場の空気を悪くしてしまう」。

過去言われ続けてきた言葉や嫌な記憶がフラッシュバックして、「結局他人に合わせた方が楽だ」と判断して合わせてしまいがちです。

<その時は>確かに楽です。嫌な記憶を思い出さなくて済むから安心します。

けどそれが続くと、人に合わせる癖がついて、結局自分の本心に蓋をしてしまうのでストレスが溜まります。

私自身がそうでした。

信仰においても同じ状況が発生しがちです。

信仰におきかえると、合わせる対象は人ではなく神様です。

特にキリスト教福音宣教会では「神様の御心通りにすること」がとても重要視されます。

あーだこーだミーティングや面談などもしますが、結論は「行動しつつ祈りつつ、最終的には神様の御心通りになりますように!」にたどり着きます。99%この結論です。

むしろ神様の御心を探るためにミーティングや面談でいろいろ話しているという方が適切かもしれません。

最初から神様の御心が分かるわけでも教えてくださるわけでもなく、やってみて蓋を開けたらあらびっくり御心でした、というパターンが99.9%なので、行ないつつ探りつつやることがほとんどです。

なので私のように最初から正解を提示してもらったり「社会一般的によしとされる基準」のようなものがあったりする方が楽、というタイプはわりと苦労します。

個々人によって神様の御心は異なるので、他の会員にとっての正解が自分にとっての正解ではないことも多いです。

つまり他の人の話はあまり参考になりません。

まさに自分と神様、一対一の世界です。

なので「神様にとっての正解」を探ろうとするととてつもなく難しいです。

ハードを通り越してエクストラ級のゲームに挑戦している感覚です。

祈っていたら御言葉ではっきりと答えをくださったり、そうするしかない状況にだんだん変わって行ったりと、わかりやすく答えをくださるときもあります。

また、本当に命に関わる危ないことは強力に止めてくださることが多いです。

そういう御働きがある場合はいいのです。ない場合が問題です。

「自由に好きなことすればよくない?」と思う方もいらっしゃるかと思います。

ただ私の考えの癖として「これをやったら神様の機嫌を損ねてしまわないか、これが罪だった場合私の霊は死ぬ?」と不安になるのです。

神様の顔色とご機嫌をうかがってしまうし、私がいうことを聞かなくて神様の気分を害したら見捨てられるのではないかという恐怖があります。

普段人間に対して抱いている思考と感情がそのまま神様にも適用されてしまうのです。

このようなことを書くと「やはり宗教は人の自由を奪う」という誤解を与えてしまうかもしれませんが、正直致命的なNG事項(酒、たばこ、神様以外を神とみなす・最優先に愛すること)以外は別に制限はありません。

普通にスマホ・TVゲームもするし、マンガ・アニメも楽しむし、推し活もするし、海外・国内旅行も行くし、お菓子も食べるし、おしゃれも自由です。

会員同士の結婚も誰かに相手を無理矢理決められることはなく、本人たちが「この人がいい」と選んで結婚している場合が大半です。

先ほど述べた致命的なNG事項も「神様がつくったものではないし、あなたの霊が死ぬからやめようね」という意味で避けています。

キリスト教福音宣教会特有のNG事項ではなく、聖書に書いてあるからやめようという前提の話です。

酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、 
エペソ人への手紙 5:18

わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。 なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。 もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。
ガラテヤ人への手紙 5:16-21

その話に納得しない会員の中には、酒たばこをやっている人もごくわずかにいるという話を聞いたことがあります。

基本的に自己責任の世界なので、強制的に禁止されたり制限されたりすることはありません。

聖書を学び始めたばかりで、信仰を根付かせるために一時的に制限する場合もありますが(私もディズニーリゾートにあまり行かない時期がありました)、信仰がしっかり安定すれば神様の中でもっとよい形で再開できる場合が多いです。

誤解してほしくないので繰り返し強調しますが、本当にこれは私の思考の癖の問題なのです。

しかも「自分がどうしたいかよりも、神様の御心という『正解』を求めている」と自覚したのは最近です。

12年以上信仰生活をしていてやっと最近自覚しました。

正解が分からないと、自分がやっていることに自信を持てなくて、イライラしていたことも最近やっと自覚しました。やべいですよね。

最近はもう「これやっていいの!?ダメなの!?どっちなの!?やるよ!?いいの!?やるよ!??」と半ギレ状態になることが多いです。

キレやすいというのは疲労の一つのサインですね。

普段ならスルーできることがスルーできない、大目に見られることが見られない状態というのは心に余裕がない証拠です。

疲れていて心に余裕がないため、許容できず怒りが湧くのです。

普通の日常生活においても、信仰においても、誰かの顔色をうかがって生きていたらものすごく疲れました。

そして、このように生きるのはもう無理だと思いました。

疲弊して普段できていたこともできず、楽しめていたことも楽しめなくくらい疲れて「ここまでして他人の顔色をうかがわないといけないの?」と疑問を持ったとき、答えはNOしかありませんでした。

当たり前のことですが、その当たり前が私にはできませんでした。

家でも学校でもどこでも人の顔色をうかがってそれに合わせることで今まで生き延びてきたし、そのような生き方しか知らなかったからです。

けど、もう人間にも神様にも合わせるのは疲れました。

マジで疲れました。

疲れすぎて、もうこれ以上は無理だとすら思い始めています。

もちろん法を犯すつもりも誰かを傷つけるつもりも全くありません。

けど法の中でなら、誰かに迷惑をかけるわけでなければ、自分のその時の気持ちや本音を優先して生きたいと思い始めました。

他人軸で生きるのは今まで30年以上ず~っとやってきたからもう十分でしょう。これ以上は必要ないはずです。

とはいえ今まで自分の本音や本心を押し殺して生きてきたので、まずは自分の本音が何か、本心に目を向ける作業から始めないといけません。

自分軸で生きられるようになるまで、道のりは長いと思います。

けど、レストランでメニューを選ぶとき、栄養や値段よりもその時自分が本当に食べたいものを選ぶとか

大多数の意見に押されて雰囲気に飲み込まれるのではなく、自分はどうしたいかを勇気を出して言ってみるとか

「オタクとしてこれは買わないといけない」ではなくて、本当にほしいと思ったものだけ買うとか

「これくらいできて当然」ではなくて、できた自分を褒めるとか

小さな経験を積み重ねていって、自分の心を大切にできる人に生まれ変わりたいです。

2026年後半の課題が見えてきたので感謝です。

最初の方は自分軸を死守するくらいの心持で、考えの改善をがんばっていきたいと思います。

ファイト、おーっ。

この記事を書いた人
こころ

2015年8月に適応障害の診断を受け、2019年2月から1年1か月休職し退職。今は障がい者雇用枠で働いています⭐︎
自分の心理を分析しながら、心の傷を癒していっています(^^)
キリスト教福音宣教会会員として神様の愛を学びながら、自分と他人を愛せるように頑張っています☆
ディズニー大好きで、特にベイマックスが大好き!(●ー●)
ディズニーのアトラクションは、ベイマックスのハッピーライドが1番好きです!
(詳細については↑の「”こころ”」をクリック☆)

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