摂理で御言葉を学び始めた時、とても心に響いた聖句がありました。
こちらの記事でも少し触れましたが
Kokoroはずっと自由を求めていました。
私は幼少期、何をやっても親に褒めてもらえませんでした。
唯一、勉強を頑張ってテストで良い点数を取った時
学校の先生がたくさん褒めてくれて、認めてくれて
母親も「すごいね、頑張ったね」とほめてくれたました。
そのせいか、「勉強を頑張れば褒めてもらえる」と
脳に入力されたようで、勉強をひたすら頑張りました。
「優等生でなければいけない」
「良い点数をとれば周りに認められる」
いつもそのようなプレッシャーを抱きながら
恐怖心を抱きながら勉強をしてきました。
逆に、成績が落ちれば自分の価値も一緒に堕ちるとまで
考えていて、成績表=自分の価値を示す数値
という認識観を持ちながら生きていました。
生き苦しいわ(;^ω^)笑
今となっては笑えますが、当時は本気でそのように生きていました。
「優等生」から抜け出したい。
ありのままの自分でいたい。
自分で自分を縛り付けていた認識観から解放され
自由になることを
心の底では願い求めていたようです。
だからか、以下の聖句が非常に心に刺さりました。
ヨハネによる福音書8章31-32節
イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。 8:32また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。
「真理はあなたがたに自由を得させるであろう」
この言葉は、当時まだ学生だった私にとって
「真理によって、私は自由になれるんだ!」という
希望になりました。
今はもう社会人になり、成績表や勉強からは解放されました。
(会社や周りからの評価、仕事の出来具合というふうに
少し違いますが、まだまとわりつくものは感じますが)
御言葉を聞いて、真理が書かれている聖書を読みながら
少しずつ考えは矯正されていきましたが
最近、学生と関わる中で
「昔のKokoroみたいな思考の人、多いんだなぁ。
勉強できないということを、気にする人多いなぁ」と
改めて感じました。
このことについてお祈りしていたら
最近、先生が以下のような御言葉を伝えてくださいました。
勉強というのは、頭脳を発達させるための科目の一つだと私は思います。頭脳を発達させるうえで必要な事。
だから「先生、この科目合いません。私は化学を勉強しているけれど頭が痛いんです。学校やめたいんです。ほかの学校に行きたくないし」
「違うよ。頭脳を発達させる作用することだから、どんな作用を学んでも、複雑なものを学んだら頭脳がもっと発達するから、そういう意味で勉強をして、卒業してからあなたが走る時にはその化学の分野で働くわけではない。」
「あぁ、言われてみるとそうですね。」
鄭明析牧師の明け方の御言葉より抜粋
あぁ、苦手な科目があっても
その面において勉強できなくても
自分がバカだからとか、記憶力が悪いからとか
自分を責める必要がない。
そもそも、そういう問題ではない。
個性に合わないだけなんだなぁ。
勉強ができなくても、勉強を通して頭脳を開発して
個性に合った自分の道を行くのが、本当の勉強の意味なんだな。
御言葉を聞いて、とてもスッキリしました。
「優等生でなければならない」
「勉強ができなければならない」
日本の学校って、そういう雰囲気が強いように感じますが
勉強の根本的な目的がはっきり分かれば
そんなに落胆しなくなりますね^^
真理の御言葉によって、自分を苦しめる考えから自由になる。
Kokoroは、たくさん体験してきました。
自分をいじめなくていいんだよ。
ありのままの個性でいいんだよ。
自分が好きなことに一生懸命になって
その面で才能を開花させればいいんだよ。
神様のそのような愛を
皆が分かってくれたらいいなと
今日も切に願います。