昔は必要だったけど今捨てるべきもの、トラウマ

闘病の経緯
引用元:https://wolmyeongdong.com/%E8%A6%8B%E3%81%A9%E3%81%93%E3%82%8D/yashinsaku

社会復帰し働き始めてから10日経った頃、朝起きたら抑うつ気分がものすごく酷かった日がありました。

心がすごくしんどくて、抑うつ状態が1番酷かった頃の心を想起させる感じだったため、「またあの時の状態に戻ったらどうしよう」ととても怖くなりました。

仕事が原因、というのは分かるけど、何がどのように苦しいのか、自分の中でうまく言語化できず、ただただ感情に飲み込まれそうになって、余計に焦りと不安に襲われました。

しかもちょうど主日礼拝前にそうなってしまったので、「このままじゃ礼拝もまともに参加できない」と考え、とりあえず心を落ち着かせてお祈りすることにしました。

お祈りしていると心と考えが少しずつ整理されてきて、「働く」ことによって過去の様々なトラウマが思い出されていて、だから苦しんだと悟りました。

その時、前の週に聞いた御言葉が思い出されました。

その時の御言葉の主題は「清くしなさい」。

鄭明析(チョン・ミョンソク)牧師が月明洞を見て回っていた時、野心作の岩の造形が目に留まりました。

以前ここを美しくしようとして花も植え木々も植えて育てたけど、今見ると木々がたくさん伸びて、むしろ岩の造形を遮っていたし、木の葉と枝できたなくなっていたそうです。

それでなんと、24年間も育てた木と花をすべて切ってしまったとか。

すごい勇気。

そうしたらスッキリして綺麗になって、とても良かったそうです。

その流れで、私たちにもこのようなものがある、といって伝えてくださいました。

 神様はこのきれいに掃除された野心作をご覧になって、こうおっしゃいました。

「あなたが私エホバを愛して、私の御座をもっと美しくしようとして、植えて、花と木々も植えておいただろう。しかし今は、その花、木々が大きくなって、その枝が石を遮り、花が咲いて散って腐って落ちるから、むしろ害になった。

以前は、御座を美しくするために花や木を植えなければならなかったけれども、今は大きくなって御座を遮るから、すべて切ってなくさなければならない」とおっしゃいました。

ここで重要なポイントがあります。最初は、神様の御座に何にもないからもの寂しくて。その時は、「植えること」が時に合っていた行ないでした。

でも、今は24年、15年から24年成長したのです。だから、今は野心作をむしろ遮っているから、この時は切らなければならない。これがまさに時に従った行ないだ。

鄭明析牧師の御言葉より抜粋

大事なのは「以前、その時は」必要だったけど、「今は」むしろ害になっているという部分。

各自、このようなものがあるから、自分を点検して悔い改めて清くしようと伝えてくださいました。

この御言葉を聞いてからずっと「自分にとって昔は必要だったけど、今は捨てるべきものは何だろう?」と考えていたのですが、ピンとくるものが思い浮かびませんでした。

けど、今回祈る中ではっきりと「これだ」と思えるものを見つけました。

私が今回苦しくなって抑うつ状態になったのは

完璧にやらなければならない

会社の人に嫌われたらどうしよう

見捨てられたら死ぬ

大きくはこの3つの強迫観念ともいえる思考に苛まれたからでした(自己分析結果)。

今の部署の方々はみんな穏やかで優しい方たちばかりなので、人間関係で何か問題があるわけではないのですが、私の中では「職場に通って働く」「何かに所属する」こと自体に対するトラウマなんだと思います。

祈っている中で分かったのは、確かに子どもの頃はこのような思考が必要だったということ。

子どもにとっては家庭や学校が生活のすべてといっても過言ではありません。

まだ狭い世界の中で生きていますからね。

特に「家庭」が安全基地になっていなければ、親に見捨てられる=死ぬくらいの勢いで生命への危機を感じるので、家庭に対しもしくは学校に対し、何とかして見捨てられないように振る舞います。

認めてもらおうとして、すべてのことを完璧にこなさなければならないと自分を脅迫します。

嫌われないように完璧に物事を穏便に行ない、手をかけさせない「良い子」を演じます。

それで、なんとか自分の居場所を確保しようとします。

そうすることで初めて生きられるからです。

今話したフローは全部私の中でのフローなので、全員が全員このようなルートをたどるわけではありません。

でも少なくとも私は、そうやって生きてきました。

そうしないと、まともに生きられなかったんだと思います。

不安も心配も押し殺して気づかないふりをして、ずっと表面はニコニコしながら生きてきました。

それが良かったのか悪かったのかは分からないけど、そのおかげで自殺せずに生き延びてきた部分はあります。

何が言いたいかというと、私にとっては完璧主義も見捨てられ不安も、その時は必要だったんじゃないかということです。

「でも、今は?」

そう問いかけた時、私の頭の中は一瞬真っ白になりました。

…今は、神様がいらっしゃるから要らないんだな。もう必要ないんだな。

祈りで神様と対話する中で、真実にそう感じました。

 数十年間育てた雑多な木、雑草は自分の考えと行ないだとしましょう。自分が「もっとよくやろう」と思ってしていた考えや行動が、時には自分を抑圧したり負担になったり、そして自分も知らないうちに、「神様の御心通りに」と言っていたけれども、自分中心、また合理化して、むしろ自分自身を遮っている場合もあります。

むしろ、それが神様と主に行く道を塞いで遮っている場合もあります。このような場合はどうすべきでしょうか?自分の考え、行ないだけれども、切ってしまえば自分がよく見え、神様、三位と主もよく見えるようになります。

鄭明析牧師の御言葉より抜粋

「完璧にやらなければならない」

「人に嫌われたらどうしよう」

「見捨てられたらどうしよう」

むしろこのような思考が、今は自分にとっても神様にとっても害になっている。

だから、早く捨てよう。

神様がそうおっしゃる理由が分かり、とても気持ちがすっきりしました。

昔は必要だった。だから過去の自分を否定する必要は全くない。

でも今は、違う方法で生きていく必要がある。

だから否定はせず、引きずることもせず、今バッサリ切ってしまおう。

そういうことなんだなと、御言葉を深く悟るようになりました。

とはいえ(^-^)

捨てるのは簡単ではないですよね。

特にトラウマになっているものを捨てるのは、ひと手間かかります。

それでも前よりは遥かに良くなってきているから、希望をもって、御言葉で日々自分を磨きつくっていきます。

今は違う方法で、新しく生きよう。

過去に縛られて、本当の価値と実力を発揮できなかったらあまりにももったいなさすぎるもんね。

昨日よりもっと良い自分になれるように…Let it go!