「自信」。自分を信じること。辞書では以下のように記載があります。
私は本当に自信がありません。
マジで共依存で、相手の評価=自分の評価です。
あまりそういう風に見られないようで「自信がない」というと結構驚かれることが多いです。
けど、基本いつもびくびくしています。
褒められても素直に受け取ることができず、笑ってごまかしたり言葉では「ありがとうございます」と言いつつ真に受けていなかったりします。
自分でいうのもなんですが、他の人からすると「自信がないのが不思議だ」というくらい私は優秀だそうです。
顔も声もかわいいし、自頭もよいし、留学も行っていて語学もできるし、仕事も速いしできるし、子どもに好かれるし、ダンスもするし、本も出版するし、コツコツ毎週ブログを書く持続力があるし、コスプレもクオリティ高くするし、推しへの愛があまりにも熱い / 他の人と熱量が違うなどいろいろ褒められはします。
けど、私は自信がないのです。
どれも基礎はできるけど応用は苦手だし、中途半端な気がしています。
確かに推しの愛は熱いですが、そういうオタクは私以外にもたくさんいます。
私より熱量がすごい人だっています。
そういうことを考え始めると「自分は確かにすごい人なのかもしれないけど、上には上がいるし、自分並みにできる人は他にもたくさんいるし」という結論に至り、自信を持てずにいます。
不思議ですよね。
あまり自信がなさすぎると嫌味にすら聞こえると言われたこともあって自信を持とうとがんばったときもあります。
けど、自信を持とうと思ったら怖くなりました。
「どうして自信を持つことが怖いんだろう?」と考えました。
おそらく、過剰に自信を持って心が変わってしまった人をたくさん見てきたからだと思います。
「私は変質したくない、自信を持つのは怖い」と頭で防御反応が起きてしまうのでしょう。
また、少し話がずれるかもしれませんが、「すごい」と言われると小中学のトラウマが思い出されて、「また妬まれる?」と怖くなって相手の言葉をシャットアウトしてしまうのもあると思います。
小中学のとき、勉強だけはできたのでとにかく同級生から妬まれまくってました。
「すごい」と言われると、そのときのトラウマがフラッシュバックしてしまうのです。
言い訳だということはわかっていますが、いろいろな理由があって自信がありません。
そのうえ、自信を持つことがとても怖いと感じているようです。
最近やっと自覚しました(;^_^A
けど、自信がないことによる弊害が最近とても大きく感じられて、さすがに必要最低限の自信は持たないとまずいなと感じています。
自信がないとどのような弊害が起きるでしょうか?
自信がないから積極的にやりません。
自信がないと「こんな私に神様がともにしてくださるわけがない」と自暴自棄します。
自信がないとモチベーションが下がって結局やらなくなります。
自信がないとできることも自らやらなくなります。
弊害は結構多いです。
命の歴史は「心と考え」にある。神様がいつも自分に共にしてくれても分からない人は、本人が神様に対して関心がないか、神様が自分と共にしないと考えるからだ。これは死亡圏の考えなので、神様を否定するから、不信だ。これによって心理的に自分が自ら倒れる。心が死亡圏に置かれて生きる人になる。
自分自ら落胆し、全能なる神様を誤解し否定したら、サタンも悪霊も同じ主観の者なので自分に働く。
信じて認め希望に満ちて「私に神様がいつも働きかけてくださる!共になさる!」と信じて行なえば、これが「自分の信仰」だ。事実なので実際に力を受け、希望に満ちて、いつも死亡圏から抜け出した生を生きるようになる。
もしある人が、先生がいつも祈ってあげ共にしてあげているのに「私は駄目だ。終わった」と思って諦めたら、希望が壊れるから、心が沈み込んで、死亡圏の世界、失望の世界に置かれることになる。無知が滅びるようにさせたのだ。
果樹を希望で植えておいた人が、1年、2年経っても実がならないから「どうしてこんなに希望が成されないのだろう?」と言って去って行った。3年にならないと実らない。
信仰も時が来てはじめて目的が成される。
鄭明析(チョンミョンソク)牧師の説教より抜粋
この御言葉がとても強く刺さり、「自分を信じることってそんなに大事なことなのか」と衝撃を受けました。
生命力の一部ではないですか。
この御言葉を聞いて、生きるために必要な自信はつけた方がよさそうだと考えを改めました。
「自信」と「高慢」が自分の中で混同している気もするので、認識を修正する必要もありそうです。
聖書を読んでこの二つの違いについてもっと学ぼうと思います。
また、結局はトラウマとも関係がありそうなので、トラウマ治療も同時進行していきます…。
これで~いいの~自分信じて~~~♪

エルサになれるよう、努力します。