最近、「『自己肯定感が低い人』が見落としている視点」というネットの記事を読みました。
ちょうど自己肯定感の低さを本当になんとかしたいと思っていたので、タイトルに惹かれて読んでみました。
会社辞めてやっほーいってなってたけど、自己肯定感をなんとかしないと、いくら環境変えても、人間関係でまた苦労する気がしてならないんですよね。
記事によると、「自己肯定感が低いから」「人生に問題が生じる」のではなく、「事実と自分の解釈に距離があるから問題が生じ」るそうです。
「事実と自分の解釈に距離がある」人は、ネガティブな自分像を持っている人が多いらしいです。
けど、「見て見ぬフリをした本音(=未処理の感情)」をちゃんと「感じ」て消せば、「ネガティブな自分像」を書き換えることができるとのこと。
私自身、「自分像」はどちらかというとネガティブかなーと思います(;^_^A
ということはきっと「未処理の感情」があるということ。
私にとっての「未処理の感情」って何だろう?って思って、このことについてお祈りしました。
そしたら出てきました。
私の未完了の感情は、
「愛されたい」。
「認められたい」。
でした。
「No」と言えないような環境、自分の意志を否定され、親の言うことをおとなしく聞くしかなかった環境。
でも本当は、「嫌だ」という気持ちを認めてほしかった。
「やりたくない」という気持ちを尊重してほしかった。
「私の意志を認めてほしい」。
「ただ寂しいだけ。真実な愛がほしいだけ」。
私がずっと「見て見ぬフリをした本音」は、上記のような感じでした。
家では文句や嫌味を言われるばかりだったから、「認めてほしい」という欲求を埋めてくれる人はいなくて、変に他の人に求めてしまうから人間関係がうまくいかなくなる。
「真実に愛してくれる人」を探していたけど、友達の恋愛事情を見てたら「そんな人はいないんだな」という結論に至り、早々に諦めてしまった。
そんな感じで生きてきていたようです。
でも、「認めてほしい」という欲求も、「真実に愛してほしい」という欲求も、すべて神様は満たしてくださいます。
愛してくれるのはもちろんだし、何かをする時にも、「私はこうしたい!」という人間の自由意志を大切にしてくださいます。
鄭明析(チョン・ミョンソク)牧師も、面談をすると「あなたはどうしたいの?」と相手の意志をまず尊重されるとよく聞きます。
そして、神様の愛で接してくださる。
今は、このように神様に出会い、牧師先生に会えたことが感謝です。
でも、最近ふと気づいたんですよね。
どんなに周りの人が認めてくれても、愛してくれても、<自分が自分を認め、愛する>ことができないと、欲求は決して満たされないということに。
あなたがあなたを尊重し、認めないなら
神様があなたを尊重し、認め、愛することを100%感じることが難しい。瞬間、感じて終わる。
足りなさは知るべきだが、その足りなさを憎んではいけない。
あなたの心によって、主の愛が歪曲(わいきょく)して見える。
真実にあなたが価値があり、貴重な人だと
説教を通して数百回、数千回叫んだが その御言葉を正しく悟れない人たちが多い。
なぜだろうか?
あなたがあなた自身を価値があると認めていないから
御言葉が完全にあなたのものにならないからだ。
あなたを愛しなさい。そして絶えず、できると話してあげ、信じてあげなさい。
そうしてこそ疲れても立ち上がり、折れても立ち上がって
三位と主が応援し、導いていらっしゃるということを 「傷ついていない心」で受ける。
鄭明析牧師の御言葉より抜粋
このような聖句もあります。
イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 これがいちばん大切な、第一のいましめである。 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。 これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。
マタイによる福音書22:37-40
「自分を愛するように」なので、自分を愛することが前提条件になっているんですよね(;^_^A
「自分を愛することは当たり前じゃー」と言われている感じがして、初めて読んだ時は衝撃を受けました。
結局、自分が自分の本音の声に耳を傾けて聞いてあげて、否定しないで認めてあげて、自分が自分を愛してあげないと、欲求は永遠に満たされることはないんだなと悟りました(-_-)
ということで今、<自分の本音に耳を傾けること>と<自分を愛すること>に挑戦中です。
これが非常に難しい( ;∀;)
誰かコツを知っている人がいたら教えてほしい…(切実)
焦らず、じっくりゆっくり取り組んでみます( ..)φ