気付いたら自分の認識がやばかった話

仕事での経緯

最近、「認識」ってとても怖いなと感じています。

「こう」って決めつけてしまっているというか、本当は間違っているのに、自分の中で前提条件くらいの勢いで「絶対に正しいと信じて疑わない観念」になってしまっているって怖くないですか?

※私が言う「認識」は、下記の2にあたるかなと思います。

 ある物事を知り、その本質・意義などを理解すること。また、そういう心の働き。「認識が甘い」「認識を新たにする」「認識を深める」「対象を認識する」
 《cognition》哲学で、意欲・情緒とともに意識の基本的なはたらきの一で、事物・事柄の何であるかを知ること。また、知られた内容。

引用元:コトバンク

1番怖いのが、自分の認識が間違っていることになかなか気づけないということ。

「こういうものだ!」「こうだ」と認識していることに対して、自分自ら「本当にそうかな?」って疑いを持つことって、なかなか難しいと思います(;^_^A

友達と電話でそういう話をしている内に、私自身、自分の認識が恐ろしく間違っていたことに気づかされました。

友達というのはキリスト教福音宣教会の友達で、仲が良くて何でも話せるような子なのですが、話している時に「私が間違っているんだから酷い言葉を言われるのは当然だ」とか「私が悪いんだから自分を責めるのは当たり前」と思い込んでいることに気付かされました。

詳しい経緯を書くと長くなるので省略しますが、とにかくやばくないですか?(笑)

(笑)じゃねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!って突っ込みを入れたくなりますが(;^_^A

常に自分が悪い、自分が間違っている」「だから責められるのも怒られるのも当たり前」、このように考えているから、自分を責めることが悪いことだと思えなかったみたいです。

もはや正当化していますね…。

今この記事を書きながら思いましたが、「私は嫌われる存在だ」「誰にも愛されない存在だ」、そういう認識もありそうな気がしてきました。

灯台下暗し、じゃないですが、自分の認識って見えないものですね…。

気付いた時は、まさに目から鱗でした(;^_^A

最近説教でも「点検しなさい」という話がよく出てきますが、自分が自分のことをどのように認識しているのか?その認識は本当に正しいのか?ということを、今一度よく考えた方がいいなと思いました…。

 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

マタイによる福音書7:3-5

自分のことも正しく見て、正しく認識して、自分の正しい価値を悟れるように祈ります( ;∀;)

この記事を書いた人
こころ

2015年8月に適応障害の診断を受け、2019年2月から1年1か月休職し退職。今は障がい者雇用枠で働いています⭐︎
自分の心理を分析しながら、心の傷を癒していっています(^^)
キリスト教福音宣教会会員として神様の愛を学びながら、自分と他人を愛せるように頑張っています☆
ディズニー大好きで、特にベイマックスが大好き!(●ー●)
ディズニーのアトラクションは、ベイマックスのハッピーライドが1番好きです!
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