血気を出したらひどく落ち込んだ

闘病の経緯

4月のある日、出かけた先でかなりむかつくことがあり、ものすごくイライラしていました。

簡単に言うと割り込みされたのですが、私はそういうのが大嫌いなので「はぁぁぁ!?」と思ってかなりイライラしました。

1時間半待っていた自分の努力が無駄だったかのように踏みにじられる感じが嫌なのだと思います。

子どもだとはいえその子によって多少は視界が遮られ、「あの子がいなければ写真撮れるのになぁ」という瞬間もわりとあったので、ずっとイライラしていました。

性格的にわりと規律やルールを絶対視してしまう方なので、マナーを守らない人は私にとってある意味「地雷」なのだと思います。

とはいえ私もマナー違反を100%していないかと聞かれると自信はないですし、マナー違反していることだってあると思います。

なので人のことを言える立場ではないのはわかっているのですが、そのときは私の中ではありえないくらいぐいぐい割り込んで行っていたのでかなり気になってしまいました。

けど、周りの人は何も言わなかったのです。

後で親に話をしたら「周りの人はいつものことで慣れているんじゃない?」と言われ「そうかもしれない」と納得しました。

けどそのあとも思い出すとやはり怒りがおさまらず、「私の心が狭いだけなのかな?」と数日間悩みました。

聖書でも血気を出してはいけないという聖句があります。

怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。

エペソ人への手紙4章26節

そして「許しなさい」という聖句もあります。

そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。

マタイによる福音書18章21-22節

すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。

エペソ人への手紙4章31-32節

「その聖句はわかってます!でもこれ私悪くなくないですか!?相手が間違ってませんか!?」とものすごく葛藤しました。

あとから自覚したのですが、そのときから自責モードに入って「こんな小さなことを許せない自分が悪い」「こんな小さなことで血気を爆発させてしまった」とひたすら自分を責めて、結果的に落ち込んでいました。

「御言葉を学び始めてから11年以上経っているのに、未だに血気を直せていないなんて、私はなんてダメな人なんだ」と思って、とにかく落ち込みました。

自信もなくなりました。

「御言葉を伝えさせていただく機会もいただくけど、実践できていない自分は伝える資格がない」とも思い、いろいろ辞めたくもなりました。

そんなときに出た主日の御言葉は「よくなるように予定しておいた。やればできる。」というとても希望的な内容でした。

<箴言4章23節>で『油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。』と言いました。<心>が「命の源」です。
あなたたちは自分の心、気分に合わせて生きていく。神様の御心どおりに生きなかった心があなたたちの運命を左右する。結局<過去>を考えず<未来>も考えずに、その時の自分の気分に合わせて生きたから、その行ないどおりに受けるようになるのだ。
各自神様のことを考えずに自分が好きなとおりにその都度気分にしたがって行なうことが、自分の運命を左右することになるということをよく悟って、神様の御心どおりに行ないなさい。

鄭明析牧師の説教より抜粋

この部分を聞いてとてもドキッとしました。

いつもはそこまで怒らないのですが、今回はなぜかとてつもなくイライラして「一言言ってやろうかな!?」と何度も思ったのです。

スタッフさんを通して一回注意していただいたのですが退かなかったので、「うあああ言ってやりたい」と思って、出てきそうになる言葉を何度飲み込んだことか。

私からいうと角が立つし喧嘩になったら面倒くさいなと思い、結局何も言いませんでしたが、この御言葉を聞いて「言わないでよかったー」と思いましたw

人々は自分の憤り、無知、血気、気分によって、その時その時自分の心、気分に従って行なう。運命を決定すべき瞬間に置かれた時は、腹が立っても、心が傷ついても我慢して耐え忍べば、しばし時間が過ぎて解ける。これを信じて行ないなさい。主キリスト・イエスの心をみんな自分の心に完全に溶かして心をつくらなければならない。

鄭明析牧師の説教より抜粋

聖書にも裁くことは主がなさるとあるとおり、誰かが間違ったことをしていたとしても、私がとやかく口を出す資格があるわけでもないし、報いることは主がしてくださるから、任せればいいんだなと思いました。

もしかしたらあの子、今頃机の角に小指ぶつけて泣いているかもしれないと思うとかわいそうになってきます。

またこの部分を聞いて、理不尽なことや自分の心に合わない嫌な出来事が起きたとき、「怒る」こと自体が罪というわけではなさそうだなと感じました。

あくまでも個人的な感想ですが、血気にまかせて相手を攻撃するのはNGだけど、怒ること自体を叱られているわけではなさそう?と思い、少し認識が変わりました。

とはいえ、許せる広い心は必要だと思いますが。

聖書にあるとおり、自分が主に許された回数を考えて自分もどこまでも兄弟姉妹の間違いを許す広い心をつくっていくことは必要だと思います。

ただ、今はまだ自分もつくっている過程だし完全ではないし、逆に自分の中の血気(地雷)に気づけたよい機会だと捉えればいいのかもしれないなと感じました。

今冷静に考えると、21年間で形成されてきた性格が10年少しで治せるとも思えませんね。

悔い改めもしつつ、諦めず続けて自分をつくっていくことが重要なのかなと思いました。

それに報いることは神様と主がしてくださるから、私は報いる立場ではないから、すべて神様に委ねればいいのだなと心が軽くなりました。

自分で自分につまづくことが多いですが、主日の説教を聞きながら「諦めるな」と言われている感じがして、血気を出したことは悔い改めてまた前を向いて進んでいくようにします。

いやー本当に自分につまづきます。

心と考えをより神様に似せていけるよう、努力します。

この記事を書いた人
こころ

2015年8月に適応障害の診断を受け、2019年2月から1年1か月休職し退職。今は障がい者雇用枠で働いています⭐︎
自分の心理を分析しながら、心の傷を癒していっています(^^)
キリスト教福音宣教会会員として神様の愛を学びながら、自分と他人を愛せるように頑張っています☆
ディズニー大好きで、特にベイマックスが大好き!(●ー●)
ディズニーのアトラクションは、ベイマックスのハッピーライドが1番好きです!
(詳細については↑の「”こころ”」をクリック☆)

こころをフォローする
闘病の経緯
シェアする
こころをフォローする