聖なる主日、ハレルヤ。
どうも、不絶頂中のKokoroです。
(いきなりすみません)
ストレスと、それによる体調不良により
霊肉共に過去最高に不絶頂です。
「良い子ちゃん」を貫き通して生きてきた私
今までの自分なら、「調子悪いです」なんてこと
他の人に言いませんでした。
ましてや、不特定多数の人が見るブログで言うなんて
今までの自分だったら、絶対あり得ない!ことだったのです。
でも最近、もう「良い子」でいることに限界が来たのか
すべてが嫌になり、最近はもう調子よいふりとか
元気~?と聞かれて「大丈夫です~(=放っておけ)」なんて
言わなくなってきました。
すべてを顕わにして
「調子悪いです(むかむか)」
はっきりいうようになりました。
「それが何?そうするの当たり前じゃね?」と感じる方もいらっしゃるとは思うのですが
これ、Kokoroの中ではかなり大きな変化なんです。
どうしてかというと
先にも書いたとおり、Kokoroはとにかく家でも学校でも
「良い子ちゃん」を演じて生きてきました。
意識してそうやってきたわけではなくて、
無意識的に。
神様を知らずに生きていたKokoroは
そうやって生きる以外、他に生きる方法がありませんでした。
Kokoroだけではなく、日本人にかなり多いとは思います。
親や学校の先生、友達の顔色を伺いながら生きて
相手の願いとおりにしないと怒られたり
それまでは楽しかった天国のような場所が
一瞬にして、地獄のような修羅場の世界に変わってしまったり
何か他の人と違うとか、少しでも「変」だと思われる行動をすると
「Kokoro変わってるよね~」とか「おかしいよ」とかいって
いじめの対象にされてしまったり
何か失敗して迷惑をかけることになった途端
味方だと思っていた人が
手の平を返すかのごとく、一瞬で敵になったり
「昨日の友は明日の敵」という言葉が本当のこの世界。
何を信じればいいのか分からず
状況や一緒にいる人に合わせて
コロコロコロコロ、自分を変えなければいけなくて
人やその時々自分がいる環境に合わせなければ
居場所を失うという恐怖心に毎日襲われて。
誰がみても隙がなく、非の打ち所がない「完璧な人」
言う事をよく聞いてくれて、心を慰めてあげられる「同情してくれる人」
失敗だとか低い点数をとるとか、頭を悩ませるようなことを起こさない「良い子」
いつもそのような、相手を傷つけない自分でいてこそ愛されるし
存在意義があると思ったし
その場所にいていいし
思い通りになる人であっていてこそ
人のそばにいていい人間になれるんだと
…文字にして客観的にみるとかなりまずい認識が形成され
二十数年間、学校でも家でも職場でも
「完璧で非の打ち所がなく、人に迷惑をかけない自分」
=「良い子」になることによって
自分を保護し、生きてきました。
油断することなく、あなたの心を守れ、
命の泉は、これから流れ出るからである。箴言4:23
この聖句を基に、鄭明析牧師は今週、
考えについての御言葉を伝えてくださいました。
じっと見てみなさい。あなたのこころがどこに流れていくのか。
少し間違ったら命の根元である考えがどこに行くかわからない。
あなたの考えを注視しなさい。
鄭明析牧師の御言葉より抜粋
びっくりしたのですが、
タイムリーに、ちょうど先々週の土曜日
同じく不調なメンバー(笑)と一緒に
自分たちの中にあるごちゃごちゃした考えを
書き出してみようといって
自分の脳の中にある考えを整理する作業をしました。
書き出してみたら、分かったことがありました。
私のすべての行動の根本にあったもの
根本的に相手にも伝えようとしていたメッセージは、一つでした。
「迷惑をかけないから、私を傷つけないでください」
最近、どうしてこんなにも不調なのか。
体が痛くて、休みたいのに休めなくて
体の不調をわかってもらえないこと
仕事も質が落ちて、上司からダメだしばかりくらって
真面目で「良い子」であることをモットーにしているKokoroにとっては
それはかなり精神的に辛くてきつい出来事で
霊的にも主日には出られないし、出ても体調の悪さから
深く集中して御言葉を聞けなくて
本当に、辛い。
けれど、一番辛いのは
自分が弱いこと。
誰よりも味方になってあげるべき自分が、自分を赦せなくて
「お前はダメだ」といって、自ら自分を傷つけること。
これが一番辛いということに、今日御言葉を聞いて気づきました。
自分が自分を傷つけるのは
相手から傷を受けた時、ダメージを少なくするため。
つまり、自分をショックから守ろうとしてしようとする
サバイバルスキルなんだと
知り合いの精神科医の方から聞きました。
結局は、安心して生きる環境が
学校にも家にもなかったから
そのように自分を守るために身につけてきた、
Kokoroの「生きる力」なのです。
ショックから、傷つけられることから自分を守るためにすること。
裏を返せば本当は、傷つきたくなくて
傷つけられたらあまりにも敏感に反応してしまって
苦しくて辛いから、逃れたいこと。
それを自分が自分に対して一番しているというこの矛盾。笑
抜け出したい。
苦しみから抜け出したい。
もうこんなに自分を責める自分は嫌だ。
もうこんなに苦しい生を生きるのは嫌だ。
私は幸せになりたい。
安心して、笑っていきたい。
あまりにも苦しくて、辛くて、
でも二十数年間生きてきたこの習慣をなかなか直せなくて
だから余計に辛くて。
限界に達してしまいました。
もう、「良い子」でいたくない。
もう、自分を殺して生きるのはばからしい。
そう思う一方で、やはり人目を気にして「良い子」になろうとしてしまう自分をまた責めてしまい
右にも左にもいけない感じがして
暗闇の中に閉じ込められている感じがしました。
こんな状況がずっと続き
状況が変わらないのを見ると
神様が私を苦しめるためにしているのかと
助けてくれないと
疑う心まで抱いてしまいました。
「どうして、どうして」
自分の考えの問題なのですが(^◇^;)
悶々と悶々としながら、どうしてですかと訴える心で礼拝に参加しました。
そんな今日、礼拝でもらった答えは、希望の御言葉でした。
「私の警護員は私の考えだ!」と考えを固めました。
自分が挫折したら神様も私を助けられないということを悟りました。
ダメだということを悟りました。
自分に期待をかけなければなりません。
自分を信じて、大きく思ってやるんです。
神様は時になったら助けてくださいます。
神様の分も計算しなさい。主の分も計算しなさい。
あなた一人じゃないだろう。
考えで運命が左右する。
最後まで、諦めなければできます。
鄭明析牧師の御言葉より抜粋
私より数万倍、数億倍、艱難と困難、辛い目にあって
それでも笑顔で生きてこられた牧師先生が
ご自身の経験を通して悟ったこと
実践されてきたことを、今日たくさん話してくださいました。
自分が自分を諦めないこと
時になったら、必ず神様が働きかけて助けてくださること
自分一人で頑張りすぎなくて良いこと
神様も一緒に、私が行なえるように手伝ってくださっていること
神様は絶対に私を見捨てないということ
一つ一つ、悟りが来て、考えが生き返りました。
神様の愛は、ただ困難をなくしてくださるとか
問題をさっと魔法のように解決してくれるとか
そういう愛ではないのです。
もちろんそういう愛もしてくださるけれど
一番大きい愛は
自分の間違った考え、心、精神を直してくださること
直す御力のある御言葉を与えてくださること
その御言葉をどのように実際の生活に適応させていくのか
生き方のモデルとなるメシヤを送ってくださること
これが神様の愛なんだということを
今日、御言葉を聞きながら悟りました。
「御言葉を繰り返し聞いて、考え、精神を直しなさい。」
信仰がふらふらして揺れる「良い子」というか優等生とはいえない私、
弱い私を叱るわけではなく
「私が御言葉を与えるから直しなさい」。
弱い私をありのまま認めてくださり、受け入れて
「直そう」と、神様はいつも手を伸ばしてくださいます。
見捨てないこと
見放さないこと
私にとっては、これが最高に理想的な愛の形でした。
この愛を求めてはいたけれど
親をはじめ、「人間」から受けることは難しかったです。
人生、今まで生きてきたすべてをご存知で
すべてをご覧になって、守ってきてくださった神様が
変わらず愛して下さり
共にして下さっていることに
感謝する心が芽生えてきました。
死んだ心を生き返らせる御言葉。
根本的に、私を強く、たくましくし
本当の幸せを享受できるように変えてくださること
これが神様の愛でした。
忘れていた愛、希望、喜び。
もがく日々は続いても
今の状況、環境の中ですべきことをして
強く、もっと素敵な人になって
笑顔で神様の胸に飛び込んでいけるように
御言葉の力で打ち勝って、生きてこられた先生の姿もモデルとしながら
今週一週間も、過去の弱い自分と戦って
古いものをポイっと捨てて、勝利する生を
生きていこう。
そうしたいですwという思いを込めて、
つらつらとブログを書き綴った、日曜の夜でした\(^o^)/