疎外感って認識の問題じゃないかと感じた経緯

仕事での経緯

人々は、「体質」になってしまい、脳に凝り固まった「認識観」があれば、<ほかのよいもの>を与えても受け入れないし、<自分の体質、自分の認識にあるもの>を選択し、好みます。

鄭明析牧師の御言葉より抜粋

 

ある御言葉を探して色々持っている資料をほじくり返したいた時、たまたまこの御言葉が目にとまりました。

 

なぜか、ものすごく突き刺さりました。

 

「なんだろう」と思ってお祈りしてみたら、すぐにあることに気がづきました。

 

このブログでちょいちょいというか結構高い確率で出てくる(笑)、神様に対する誤解。

またこれかー(-_-;)と思ってすごく反省しました。

 

今回は何を誤解していたかというと

「礼拝に出ないのは本当に御心なのか」ということでした。

 

はたまたこれから繁忙期に入り、日曜日も仕事が始まります。

早速今日も仕事でした。

元々はお休みの予定だったのですが、急遽仕事が入るようになりました。

「礼拝に行ける!」と思いこんでいて、心の準備ができていなかったためか、<礼拝に行けないショック>がいつも以上に大きかった(-_-;)

 

それでか、「疲弊しながら、礼拝に行けなくて辛くなりながらで、私はこのままやっていけるのだろうか」と不安にもなったし、疎外感もものすごく感じました。

 

「礼拝に行くのは御心じゃないのだろうか」とかありえない考えも浮かんでくるし、心がモヤモヤぐるぐるするばかりでした。

 

でも、愛の神様が私を苦しめるなんてあるだろうか?

ふと留まってもう一度考え直した時、答えはNoでした。

 

神様がとても大切になさる主日礼拝。

参加しないとかなり霊的に力を落とす大事な日(;’∀’)

 

そんな日に礼拝行かずに仕事しに行こうって、かなり信頼してないと言えないんじゃないか

 

私が考えた答えはそれでした。

私超絶神様に信頼されている…( ゚Д゚)

 

「信じる」って、簡単なようで難しいですよね。

例えば家の鍵を渡すとか、何かの暗証番号を教えることができる人、何人思いつきますか?

そんなに思いつかなんじゃないかと思います。

 

例え信じても、裏切られることが多いし。

しかも一度失った信頼はなかなか取り戻すのも難しいから、<信頼され続ける>というのも実はものすごく難しいこと。

 

そう考えた時、1年以上経ってもまだ私を信頼し、主日に出勤させるって、神様がまだ私を信じてくださっている証拠だなと思いました。

 

1年間ご覧になり、それでもやはり「この子は絶対仕事後に礼拝捧げに聖殿にも来る。信仰が変わらない」って思ってくださった証拠。

(もし私が本当に死にそうなら、さすがに止めるはず…だと信じる(笑)(;^_^A)

 

神様は<命を生かす方>であり、<殺す方>ではないから。

 

「礼拝に行ける=愛されている」「礼拝に行けない=追い出されている」みたいな認識が、どこかであったのかもしれないなと

自分の考えの誤りに気付いて、反省しました。

 

神様の法則の流れは昔も今もその基本は同じです。

サッカーの時にも選手がいつボールを蹴るかわかりません。自信がある時シュートを飛ばします。しかしまず苦難があります。ボールをとろうとする人を何人もかわしてゴールの近くまで行くためには困難がたくさんあります。しかし、それを乗り越えて強くけってゴールした時には栄光の日になるということです。

人の子の日もそれと同じく先に苦難を受けるということです。昔の預言者たちもみんなそうでした。イエス様は自分の歴史を本当によく教えられました。

子供を一人育てるのでも、栄光を受けるまでには困難な事があります。みなさんの家でもみなさんの親がみなさんに多くの期待をかけています。親として期待をかけるのは、果樹園の主人が木に肥料をたっぷり与えて、秋になって実をたくさん結ぶことを待つのと同じ立場のことです。

鄭明析牧師の御言葉より抜粋

 

仕事を通して鍛えてくださり、栄光に至れるように私を作ってくださろうという神様の愛の形かもしれない。

でも、私が神様と認識が合っていなくて、自分が考える「愛」や「祝福」ばかり願い求めていたら

既に神様がくださっている「愛」や「祝福」を享受できないからかなり損”(-“”-)”

 

<もっとよいもの>を話してあげても、自分は好きではないと言います。 <自分の次元>どおりに、<自分の脳の認識>どおりに評価し、価値を決めるからです。

各自<自分が知っている次元>どおりに、<自分の脳の認識>どおりに見て、評価し、価値を決め、好み、選択します。

鄭明析牧師の御言葉より抜粋

 

食べ物を例に挙げるとわかりやすい。

自分が「良い、好き」、「これを食べれば私のモヤモヤやイライラが消え去る」と認識していたり、食べることが体質になっていれば、体に悪いとわかっていたもそれを食べます。

例えばインスタント食品とか、アイスとか生クリームとか。

栄養価が高くて健康によい食べ物をあげても、それを選ばずに、自分がいつも食べている慣れたものを選びがちな部分、ありますよね(;^_^A

 

そのように、自分が好きな通りに「愛」や「祝福」を願い求めたら、<もっとよいもの>を与えようとされいる神様を悲しませてしまう。

そして、<もっとよいもの>をもらえる過程で疎外感を感じて諦めてしまったら?

 

「あぁ、本当に自分の考えって怖いな」

すごくぞっとしました。

 

うまく気持ちをまとめられないけど。

いつも繰り返してしまうこの間違った考えや誤解。

払拭できるよう、私も考えの次元を上げて、もっと神様を信じていきたいなと思いました。

じゃないと自分が疲れる…(~_~;)

 

心も考えも行動も、もっと自由になりたい。

作って磨いて削って。もっと空高く羽ばたきたい。

この記事を書いた人
こころ

2015年8月に適応障害の診断を受け、2019年2月から1年1か月休職し退職。今は障がい者雇用枠で働いています⭐︎
自分の心理を分析しながら、心の傷を癒していっています(^^)
キリスト教福音宣教会会員として神様の愛を学びながら、自分と他人を愛せるように頑張っています☆
ディズニー大好きで、特にベイマックスが大好き!(●ー●)
ディズニーのアトラクションは、ベイマックスのハッピーライドが1番好きです!
(詳細については↑の「”こころ”」をクリック☆)

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