2か月ほど前、「『幸せになるのが怖い』それ幸せ恐怖症かも」という記事で幸せ恐怖症について書きました。
記事を書くことで、普段忘れがちというか、奥底に封印しがちなこの症状と再び向き合うようになり「治したいな」と思っていた矢先、説教の中で「幸せ」について伝えられました。
その内容がとても良くて、個人的にはハッとさせられたので、紹介しておきます。
みなさんは幸せですか?幸せな人は、幸せなことがたくさんあるから幸せなのではないでしょう。幸せなことがたくさんあるからといって幸せではありません。幸せは何でしょうか?お金が多いからといって幸せでもないし。お金が多かったら幸せだと思いますよね、みなさん。
幸せな人は、ある状況がよくて、自分にいいことがいつも起こるから、自分が願うことを全部成しているから幸せなのではなく、幸せな人には特徴があります。
鄭明析牧師の御言葉より抜粋
まずこの部分を聞いて私はハッとしました。
自分は「幸せ」をどう定義していたんだろう?
自分が考えていた「幸せ」とは?と自問自答するにようになりました。
それで気づいたんです。
この御言葉通り、私は「幸せ」を「幸せなことがたくさんある」状態、「ある状況がよくて、自分にいいことがいつも起こるから、自分が願うことを全部成している」状態という風に定義づけていたのではないかと。
いや、それ、無理(*^^*)wwwwwww
そんな「幸せ」を求めていたらずっと幸せになれんわwwwwwww
と、自分で自分にツッコミを入れました。
私は気分や感情の波の高低差も頻度も激しいからこそ、平穏で何も問題がない日々が幸せだと思っていました。
スリルや刺激を求めているタイプではないから、まぁそりゃ平穏さは願うだろう。
起きてほしくて起きているわけではないから問題なのであり、人はそれをトラブルと呼ぶのである。
それはそうなんだけど、そんな頻繁に良いことばかりたくさん起きるか?と言うと、人生そんなうまくいかないですよね(笑)。
「自分が願うことを全部成している」とか、それもう地上じゃなくて天国じゃん。
でも、確かに私は「幸せ」に対してそんなイメージをもっていたことに気付きました(●―●)あーっと。
「幸せ」=「天国」「理想世界」「地上天国」的な。
こりゃまずい。
私は白黒思考が強く、99良くても1つのダメなところが目に付いて気になってしまう性格なので「完璧に100%良いことだけ起こる状態が幸せ」だと定義していたら余計にまずい。
では、「幸せ」とは何なのか?
「幸せな人の特徴」として、説教の中ではこうおっしゃっていました。
自分の情緒をよくコントロールする術を持っているそうです。
戦場でも、戦いに勝つには戦略、戦術がとても必要です。理論だけがあるだけではなく、戦術、そういうのができる人がいなければなりません。この人生も戦場と例えることができます。一日の間にも心がコロコロ変わって。自分も何で自分がこういう心なのか分からない。お母さんが「何であなたいつもそうなの?!」「私も分からないよ!」という時が多いでしょう。
でも、幸せな人は自分の情緒、考えを調節することができますが、肯定的な方にうまく調節ができます。
鄭明析牧師の御言葉より抜粋
ほおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお(=゚ω゚)ノ
言われてみると、なんとなく分かる。
辛いことがたくさんあっても、困難がたくさんあっても、その中でも感謝を忘れなかったり、考えをうまく肯定的に転換したりできる人は、悲しみや悩みに溺れないかも。
聖書で言うと、ダビデやヨブ、イエス様、パウロが思い浮かびます。
更に細かく特徴を話してくださいました。
一つ目、「方法があるだろう」。…(中略)…方法を変えてもうまくいかなかった。でも、こういう人たちは、方法は諦めるとしても、お母さんに「これ買って」と言っても買ってくれないということを分かっている。それを諦めて、でもその願いは諦めません。
二つ目です。「今は大変だけれども、大丈夫になるはずだ。今は大変だけれども、肯定的な意味がきっとあるはずだ。」肯定的に再評価するのです、この状況を。再評価するのです。今すごくつらい状況だけれども、もう一度評価をし直すのです。実際の状況よりも、「今はこういう状況だけれどもよいところもあるはずだ。」それで、隣にいるネガティブな人は、「だからどうなるかってお前知ってんのかよ」と言うけれども、「分からない。でも、きっとそうだろう。必ず肯定的な意味があるはずだ」と言って、この状況を再評価するのです。「今、私は勉強できないけれども、これを通して学んでいくんだ。何かいい意味があるはずだ」と。「今、とてもつらい、大変。憂鬱だ。けれども、これを通して、これに打ち勝てば私はまたもっと違う自分になっているはずだ。」
鄭明析牧師の御言葉より抜粋
三つ目です。「今は大変だけれども、これさえ終わってしまえば。」…(中略)…だから、ここに焦点を合わせ直すのです、肯定的な方に。「この困難が終われば、もっとよい時代が開かれるだろう。もっといいことがあるだろう。これが過ぎさればいい。今は痛いけれども、これぐらいの痛みでよかった。」「これぐらいの痛みでよかった」と、私は毎回そう思います。「これぐらいだから、まだマシだ」と。…(中略)…「これは終わる。終わったらご飯を食べなきゃ。お腹ペコペコだ。お腹ペコペコ。何で礼拝終わらないのよ!もう、イライライライラ」ではなく、「終わりさえすればご飯食べよう」。
私はいつもよく寝られないから、寝る時間がないからそう思います。計算してみます。「ああ、水曜日までは寝られそうにないな。じゃあ、水曜日が終わったら。」それで時間を計算して、「ああ、水曜日ならばグッスリ寝られるだろうな。これが終わりさえすれば、終わったらいいことがあるはずだ。」こういうふうに。「これぐらいでよかった。終わったらもっといいことがあるだろう」という考えでそこに焦点を合わせ直すのです。
これできたら最強すね!!!!
私はこれを聞いて「すごくいいな」と、真似したいなと思いました。
言うてこんなポジティブな考えができたら苦労しませんけどね(;^_^A
特に2つ目はかなり信仰が必要な気がします(笑)。
信仰を持ち始めてから9年以上の間、様々な出来事を通して「自分の間違いでこんな大変なことになったかと思ったけど、すごく1つ1つに意味があった。これを通してもっと良いことが起きたから感謝だ」と少しずつ思えるようになってきましたが、やはり心配・悩むことはまだまだあります。
「神様が絶対に良い方向へ導いてくださる!」という信仰が強くあってこそ持てる考え方なのかなと思います(^▽^;)
でも実際、本当に神様がすべて良くなるように導いてくださるのは事実なので、信仰を強くしていきたい!ところです。
思考回路を変えるのは簡単じゃないし、実践と成功体験がたくさん必要だと思うので、神様をたくさん呼びながら生活の中で諦めず、少しずつ変えていきたいと思います!(^^)!
「えーでも私神様信じてないしーこんなこと言われても無理」という方にも、一言こんなアドバイスをくださいました。
だから、こういう人たちのために方法が一つあります、秘訣が。いい言葉を言っても受け取るのが難しい人は、受け取ることよりも心を開けることをもっとたくさんすればいいです。開けること。心を満たすことよりも開けること。心の中に苦痛な考え、ただ「捨てる」と思うのではなく、自然に流していけばいいのです。
これを「忘れてしまおう」と思ったら、もっと思い浮かびます。だから、「流そう」と思えばいいんですけれども、それも難しいかもしれません。だから、もう一つ結論を話します。これは脳科学的にも通じる話です。
苦痛の考えを自ら流すことはできないから、どうするのか?肯定的な人の近くに自分を連れていくこと。それは簡単でしょう。一人ではないから。それをやればいいのです。肯定的な人の近くに自分を連れて行けばいいのです。
鄭明析牧師の御言葉より抜粋
手放そうとすると余計に思い浮かぶから、自然に流すこと。
そして肯定的な人の近くに行くこと。
かなりハードルが下がった感じがしますね。
特に2つ目は簡単。
最近、カウセリングの先生に「自分の近しい人5人を足して割ったのが自分だ」という話を聞きました。
それくらい、いつも親しく近くしている人から受ける影響が大きいという話です。
自分が誰と時間を過ごし、どんな影響を受けるのかが、自分を形成するとも言えるでしょう。
どうせなら、肯定的な人の近くで良いエネルギーをたくさん受けられたらいいですね♪
余談ですが、そういう意味では実家を離れてよかったなと思いました(;^_^A
父親が不機嫌だったり切れたりしやすいし、アル中かつ酔うと別人みたいになる人なので…会うともちろん嬉しいけど、やはり疲れてしまう部分もあります。
肯定的な思考回路を身につける訓練はしつつ、自分一人では難しい時は肯定的な人にも頼って、うまく幸福度を上げていきたいです…!
努力!友情!勝利!