ある日、「自分の信仰」という主題で御言葉が伝えられました。
とてもざっくり説明すると、聖書にも書かれているように、自分の行ないどおりによいことも悪いことも受けるという内容でした。
『人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。』
マタイによる福音書16章27節
『「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。』
黙示録22章12節
自分が当時転換期にいたこともあって、この御言葉がとても胸に響きました。
そして深く考えました。
自分が病気になったのも、自分の行ないの結果なのかどうか。
全能者神様を信じ、イエス様を信じ共に生きる人たちが「神様が助けない。つらい。どうして私だけがこのような苦痛を受けるのか」と言って世の中へ出て行く。自分の責任を行なう信仰をしなかったから得られなかったのだ。また、神様が与えたけれども、過去の恵みを分からずに生きる人たちだ。
命の歴史は「心と考え」にある。神様が私聖霊と共にいつも自分に共にしてくれても分からない人は、本人が神様に対して関心がないか、神様が自分と共にしないと考えるからだ。これは死亡圏の考えなので、神様を否定するから、不信だ。これによって心理的に自分が自ら倒れる。心が死亡圏に置かれて生きる人になる。
自分自ら落胆し、全能なる神様を誤解し否定したら、サタンも悪霊も同じ主観の者なので自分に働く。
信じて認め希望に満ちて「私に神様がいつも働きかけてくださる! 共になさる!」と信じて行なえば、これが「自分の信仰」だ。事実なので実際に力を受け、希望に満ちて、いつも死亡圏から抜け出した生を生きるようになる。
果樹を希望で植えておいた人が、1年、2年経っても実がならないから「どうしてこんなに希望が成されないのだろう?」と言って去って行った。3年にならないと実らない。
信仰も時が来てはじめて目的が成される。
心が命の世界へ出てこさせる。心、考えをどのようにするかによって、死に置かれたり、命に置かれたりする。
鄭明析(チョンミョンソク)牧師の説教より抜粋
御言葉を読んで、考えて、お祈りしてみた結果、やはり自分の行ないの結果だなと感じました。
もしその時神様、私聖霊が全く知らないと言っても、自分が自分のために絶対者を絶対に信じて行なって、自分の信仰を生かさなければならない。知恵だ。知識だ。ないと言って泣くな。駄目だと言ってため息をつくな。
人は身をすくめてうずくまって生きたら、縮こまってうっとうしい。心、考えもうずくまって生きたら不安だ。恐れて悩み心配して生きたら、自ら心が閉じ込められて生きるようになる。
全知全能なる神様、聖霊様に頼り、いつも呼んで願い求めなさい。やる分、行なう分、接してくださる。
神様があなたの目に見えるように現れることがないとしても、守護天使の霊、そして自分の霊と魂を通して、神様が、あなたがすべて行なうように助けてくださる。祈れば聖霊と主の霊が来て、ふさわしい分、行なわれる。
地球世界の80億が呼んでもみんなに同時に現れる。
鄭明析(チョンミョンソク)牧師の説教より抜粋
私は否定的に考えてしまうことがとても多く、まさに生涯「恐れて悩み心配して生き」「心、考えもうずくまって生き」てきた人だったと思います。
罪を犯したら「私はもう駄目だ」とすぐに思うし、「こんな私の祈りなんて神様が聞いてくださるわけがない」、「神様にもう嫌われた捨てられる」と思うことも未だにあります。
私、信仰が悪いでしょう?Hahaha
御言葉を聞いて、今までの自分の行ないを振り返ってみて、人に対しても、自分に対しても、天に対しても、信じる心が本当に足りないのだなと思いました。
「絶対に自分は愛される存在だ」とか、
「相手が自分に向ける愛はいつまでも変わらない」とか、
「こんなことをしても相手は自分のことを好きでいてくれる」とか、
心の底からは信じられていない気がします。
外見からはあまり想像されないようで、ぶっちゃけると結構驚かれることが多いのですが、私はとても人間不信です。
Xでもつぶやきましたが、小中学のいじめや仲間外れ、家庭環境など、いろいろな経緯があって人間不信になりました。
私にとって、誰かを信じることはとても難しいことです。
といいながら12年以上信仰を持ち続けているので、書きながら矛盾を感じてもいます。
おそらく、聖書や聖書に基づいた御言葉については信じる気持ちが強いので信仰が生きているのだと思います。ハレルヤ。
口頭より明文化されている言葉に弱いのかもしれません(笑)。
けど結局、自分が相手の愛を疑うから自分の心と考えが地獄に閉じ込められ、孤独を感じ、勝手に悪い想像をし、勝手に疑い、勝手にメンタルに不調をきたしているんだろうなと思いました。
御言葉の通り、自分の行ない通りに受けているのだと思います。
信じないからつらいし、信じられないから考えが病気になってしまったんだなと。
人の気持ちに対しては、HSPの能力的に敏感に察知しやすいのは事実ではあると思いますし、当たっているものもあるとは思います。
けど結局人の気持ちや考えていることなんて、本人に確認しないと合っているかどうかなんてわからないですよね。
自分の立場で考えても、勝手に誤解されるのはあまり気分がよいとはいえません。
「天」に対しては「信仰」。
自分を含めた「人間」に対しては「信じる」こと。
人を信じすぎるのもよくないですが、私の場合はもう少し信じた方が自分が楽になるのかなと思いました。
いつも御言葉で今自分がすべき方向性を示してくださることに感謝します。
信じること、努力してみます。