神様の御心と自分の「本音」

闘病の経緯

神様の心で行ないなさい
私たちが生きていく上で一番の核は「心」です。
(箴言4:23)『油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。』
心によって運命が左右されます。心をどのようにするか、誰の心で行なったかによって栄えたり栄えなかったり、成功したり滅んだりもしました。
今日の聖書の本文を読むと、パウロは従う人たちに「あなたたちはキリストの心を持ちなさい」と言いました。
人間としてキリスト・イエス様はいつも「私は自ら行なうのではない。私の父が私を通して行なわれる」とおっしゃいました。


(ヨハネ5:30)『わたしは、自分からは何事もすることができない。ただ聞くままにさばくのである。そして、わたしのこのさばきは正しい。それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされたかたの、み旨を求めているからである。』
(ヨハネ14:10)『わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。』

イエス様のようにこの時代のみんなが神様の御言葉を聞いて神様、聖霊様、主の心で行なうべきです。そうすれば命の主管圏で生きる人です。このように生きる人たちは神様、聖霊と毎日一緒に生きていく人です。

鄭明析(チョンミョンソク)牧師の説教より抜粋

キリスト教福音宣教会では、「神様の御心どおりにする」ことについてとても頻繁に話されます。

イエス様が誰よりもそのように生きてこられたから、私たちもそのようにしようという主旨です。

イエス様のゲツセマネでのお祈りを見ても、亡くなる直前の最後の言葉を見ても、自分が苦痛の道に行くとしても必ず神様の御心に従ったイエス様の心の姿勢がよくわかります。

そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。 そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。
マタイによる福音書 26:38-39

そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。
ルカによる福音書 23:46

この2か所の聖句は、イエス様が葛藤されたうえで従順した姿がよく伝わってくる個所だなと読むたびに思います。

「神様の御心」とは「神様の心、考え」です。

聖書にもあるとおり、大体は人間の考えとはまったく違います。

私の思いは、あなたがたの思いとは異なり私の道は、あなたがたの道とは異なる――主の仰せ。天が地よりも高いように私の道はあなたがたの道より高く私の思いはあなたがたの思いより高い
イザヤ書55章8~9節

人は自分の心で生きていったら、知能が低く考えが低いから、間違えて自分を罪によってけがれさせ、腐らせます。
だからいつも神様の心、聖霊の感動で生きていかなければなりません。自分の考えと心は死の考え、死の心です。神様の心と考えを持って生きなければなりません。


鄭明析(チョンミョンソク)牧師の説教より抜粋

だから使徒パウロも神様、キリストと同じ考え、心を持たなければならないといいました。

キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。
ピリピ人への手紙2章5節

ただ、これがものすごく難しいです。

イエス様のように敵を愛する心、赦す心を持つことも難しいですし、神様の壮大な御心を成すことも決して簡単ではありません。

もちろん現在の自分が手に負える範囲のものでとどめてくださる神様ではありますが、ひーひーいいながらやることも多いですし、時には嫌なこともしなければならないこともあります。

また、神様の御心が何かわからない時も大変です。

方向性がわからないので、答えはやるかやらないか二つのうち一つだとわかっていながらも、どっちが正解かわからなくてもがきます。

というか、「神様の御心」といってもよほど大きなことでなければ基本本人の自由意志で選択する場面が多い気がします。

例えばご飯、着るもの、買うもの、部屋のレイアウト、就職先…そのような生活の細かいところまで神様が介入していたら、いくら神様といえど手が回らないかと思います。

80億人以上いますからね。さすがに「好きにしなさい」とおっしゃるでしょう。

説教にも出てきました。

神様はいちいち関与することはなさらず、ふさわしいことにだけ関与なさいます。全能者なのに、80億人のあれやこれやにすべて関与なさるでしょうか。

鄭明析(チョンミョンソク)牧師の説教より抜粋

ただし、個人的には「自由に選択していいよ」と言われる方がストレスを感じてしまうので、「正解がある方が楽!」と思う場面も多いです。

幼少期、家では私の意志は尊重されず、親の言うことを聞くことだけが求められていたので(食べるものも父親に「これ食べろ」と言われていました)「選択していいよ」という状況に動揺するのです。

まぁ、命令されること自体は嫌いなので家庭から解放されて感謝でもあるのですが、どうしても自分の本音よりその場の状況や周りの人にとっての「正解」を考えてしまうことが未だに多いです。

一般的な言葉を使うと「自分軸」ではなく「他人軸」なのだと思います。癖は怖いですね。

人生は選択の連続ですが、自由に選ぶことは私にとって難しいです。

最近もそういうことがありました。

神様の御心がわからないためどうしたらいいのかもわからず、悶々と悩んでいました。

そのような時、答えはやはり御言葉で来ました。

全能なる神様、聖霊様が行なわれるように自分の心を委ねなければなりません。自分の心の主人であられる神様と聖霊にいつも尋ねてみてから行なうべきです。そうすれば神様が行なわれます。

鄭明析(チョンミョンソク)牧師の説教より抜粋

「尋ねてみて」というのはつまり、対話=お祈りが必要ということに気づいてはっとしました。

「『御心』という名の『正解』を選ばないといけない。」
「間違えたら神様の機嫌を損ねて嫌われてしまう。」

「間違えたら痛い目を見るから間違えてはいけない。」

今まで生きてきた経験で植え付けられたトラウマによって、何かを選択する際に強迫観念のような考えで自分を追い込んでいました。

もちろん何を選択するかも大事です。

けどそれ以上に、選ぶ過程が重要なのだなと思いました。

「自分はこうしたい」と神様に正直に話すこと、それに対し神様が「分かった。でもこっちの方があなたが受け取るものが多いよ」と示してくださること、そうやって御心の道に向かう過程自体が貴重な思い出になります。

そうやって対話して思い出をつくりながら選んだ結果であれば、万が一悪かったとしても後悔はない気がします。

自分の本音を伝えたうえで導かれたら納得しそうだなと思いました。

神様は王たちや財閥や誰でも、すべての人に「自分の考えを話してみなさい」とおっしゃって、その考えを聞いてみてから決定なさいます。

鄭明析(チョンミョンソク)牧師の説教より抜粋

「最初から一発で正解を見出して選ばないといけない」という考えが強くて苦しむことが多かったですが、神様の御心は「まず自分の本音を伝えること」のようでした。

「その考えを聞いてみてから決定」するということは自分がまず話さないと始まらないやーんと衝撃を受けました。

ちなみに誤解を生まないために補足しますと、今回書いた私の悟りは個人に限定されていると思います。

13年以上信仰生活をしていろいろな人の体験談を聞くと、神様の一人ひとりに対する働きかけ方は本当に違います(笑)。

私の場合は、幼少期に自分の意志が尊重されなかったですし、本音を求められていませんでした。

だからこそ現在神様が私に本音をいうことを願われていますし、「自分の意志は尊重されて受け入れてもらえる価値のあるものなのだ」と感じられるよう、成功体験をさせてくださっている…というのを感じています。

私と似たような環境で育った方や似た性格の方には今回書いた内容は参考になると思いますが、元々自分の主張が激しい人には真逆の働きかけがあると思います。

感動や働きかけを無視して自分の考えで突き進んで痛い目を見て結局御心の道に行くパターンが多いという人も、私の周りに実際に何人かいます。

どちらがいい悪いという話ではなく、本当に神様は一人ひとりの個性に合わせて働かれるという話です。

なので今回の話が身に染みる方もいれば、いない方もいると思います。

神様と自分、一対一の世界なので神様は自分にはどのように働きかけることが多いか?というのを研究することをおすすめします。

長くなりましたが、少しでも誰かの参考になれば幸いです。

私と似ているみなさんは、恐れず自己主張していきましょう~!

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