「あなたは生きてて良いんだよ」生の許しを求めていた私に、1番欲しかった言葉をくださった神様

闘病の経緯

6月のある日、御言葉の中でこんな一言がありました。

 各自<自分>が「どうして福音を聞いて摂理(キリスト教福音宣教会)に来るようになったか」悟ろうとしなければなりません。

鄭明析牧師の御言葉より抜粋

この一言が深く突き刺さり、御言葉を聞くようになったきっかけ等、これまでの経緯を振り返りました。

そうしたら、あることを思い出しました。

私が聖書を学んで神様を知り、信じるようになった1番の理由がありました。

それは「私は生きてても良いんだな」と自分が生まれた意味も目的も教えてもらった際に、生まれて初めて納得できたからです。

何歳かははっきりと覚えていないのですが、小学校低学年くらいの時から私は「私は生きていても良いのか?」という疑問があり、いつも不安でした。

「私がいるせいで、この場の雰囲気が悪くなっているんじゃないか」

「私がいるせいで、おばあちゃんたちと父母姉は仲が悪いんじゃないか」

「私がいるせいで、父と姉は喧嘩しているんじゃないか、姉は母に甘えられないんじゃないか」

「私さえいなければ、この子は平穏に暮らせるんじゃないか」

「私さえいなければ、この子は親から嫌味言われることないんじゃないか」

そんなことばかり考えていて「自分が周りの人の不幸の原因になっている」というような、まるで自分が悪い病原菌というような認識がずっとあって「私は生きていても良いのか?いない方がいいんじゃないか?」という考えをずっと持っていました。

今冷静に考えると、課題の分離ができてなさすぎるとか、私一人でどうこうできる問題じゃないことだらけやんとか、色々ツッコミ要素満載で笑えますが(笑)。

当時は真剣に悩んでいたので、未遂ですが家に誰もいない時に包丁を取り出して自分の手首切ろうと考えたこともあるし「死んだ方が楽だろうな」とも考えていました。

あとは

「私が生きていようが死んでいようが、この世界は何も変わらないし、何の影響もない。

私が死んでも、家族はしばらくの間は悲しむだろうけど、すぐに忘れていつも通りの生活をする。

私が生きていても死んだとしても世界は何も変わらない。

だから生きていようが死のうがどっちでもいいっていうか変わらないだろ」

という非常に冷めた考えがずっとありました。

正直この考えはまだ少し残っているように感じるので、完全に滅ぼしたい今日この頃です。

そんな冷めた一面がある一方、まだそのような考えに至らない前は、自分が生きていても良い理由を見つけるのに必死でした。

周りの大人に認められたくて、必死に顔色を伺って「良い子」を演じ続けてきました。

相手の顔色や気分を察知し先回りして相手が願うことをすることによって、承認を得て、安心したくて必死だったんだと思います。

私が培ってきたサバイバルスキルだったのでしょう。

ずっとそうやって生きてきたので、「役に立てば捨てられない」→「役に立たなければ捨てられる、否認される」→「有益を生む存在でなければここにいてはいけない」→「有益な存在でなければ生きる価値がない」という感じで、認識がどんどん刷り込まれていったのかなぁと思います。

だから、完璧主義や「できない自分」を責める癖がついてしまったのでしょうね。

でも本当は、何もできなくても、役立たずだとしても、「お前はここにいていいんだよ」と認めてほしかった。

「生きてていんだよ」と言われたかったです。

同じく小学校低学年の頃、夜に泣きながら母に「私は生きていても良いの?」って聞いたことが2回くらいあります。

その時の母の答えは全く覚えていません(ごめん、母)。

腑に落ちなかったことだけは覚えています(ごめん、母)。

私は論理的に説明されないと納得がいかない、さらには納得しないとできないしやりたくもないタイプなので、「どうして」の部分を重視していました。

だから母の答えにも納得がいかなかったんだと思います。

「どうして」の部分がなかったもしくは弱かったから(ごめん、母)。

「自分の人生の目的」くらいまでは考える人もいるけど「どうして人間は生まれたのか」「何のために人生があるのか」という深いところまで考えている人って、なかなかいない気がします。

普段からそんな深い話をする機会も友人もなかったのもありますが(;^_^A

とにかく、私は誰からも「自分は生きていて良い、生きるべき存在だ」ということに対し、納得いく説明を聞くことができませんでした。

鄭明析(チョン・ミョンソク)牧師に会うまでは。

牧師先生は聖書を元に「どうして人間は造られたのか」「何のために神様は人間に人生100年を与えたのか」「人間はこの人生をどう生きるべきなのか」等、私が疑問に思っていたことを論理的に、しかも分かりやすく教えてくださいました。

(正確に言えば、牧師先生から学んだ会員の方々経由で学んだ)

その話を聞いて生まれて初めて「だから私は、人間は生まれてきたんだ!生きるべき存在なんだ!」ということを理解し納得しました。

誰か一人の人間が人生をかけてもがいて悟りを開いて語る、そういう個人的な見解ではなく「聖書」、つまり世界1のベストセラーという引用元が確かにあったのが良かった。

私の性に合っていたんだと思います(笑)。

私がキリスト教福音宣教会に来るようになったのは、ほしかった言葉をもらったからです。

かっこつけて言えば、人生の疑問に対する答えをもらったからです。

 神様は「あなたが<何か特別なこと>をしなくてもいいから、『最後まで』私と愛し合って一緒に生きよう」とおっしゃいました。
神様は<どんなこと>よりも<新婦たちと愛し合って一緒に生きること>を本当に喜ばれます。

<神様>が<自分>をどれほど愛していらっしゃるのか、神様の心を悟ろうとしてこそ、悟るようになります。

鄭明析牧師の御言葉より抜粋

まだまだ悟れていないことも多いし「神様に絶対に100%愛されている!見捨てられない!」とも思えないけど、「どうして生きるのか」、人生の目的は学べたから、心は大分楽になりました。

「あなたは私が本当に愛するから、造ったんだよ。

本当に愛している。

何かしてくれなくていいから、私と最後まで一緒に生きて、愛し合おう」

1番欲しくて、1番求めていた言葉を言ってくださる神様に出会えたから、本当に感謝します。

神様をもっと愛するために、愛一筋で頑張ります\(^o^)/