「ディズニーのキャラクターやキャストさんたちを通して愛を感じていたことに気付いた【前編】」の続きです。
前編ではタイトル通り、パークでキャラクターたちやキャストさんとのお喋りや交流を通して安心感や無条件の愛を感じていたことを自覚するまでの経緯を書きました。
今回は、自覚したものの、それってどうなの?と疑問に思った話をします。
「別に悪いことではなくない?どうして疑問に思うの?」と思われる方もいらっしゃるかと思います。
ただ、私が疑問を抱いた理由がちゃんとあります。
私は神様を信じて生きています。
神様は無条件の愛を常に24時間休まずに私に注いでくださっています。
それなのに、キャラクターたちやキャストさんたちに無条件の愛を求めるのって信仰者としてどうなの?と思ったわけです。
もちろん神様は霊の存在のため、人間の目には見えませんし触れられても肉体は分かりません。
神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。
ヨハネによる福音書 4:24
同じ教会に通う、長年の付き合いの友達にこのことを相談したら、「でも肉体でそういう安心を感じるのも大事じゃないかな?それか神様がハグしてくださる夢を見られるようお祈りするとか…?」と言われ確かにと思いました。
確かに悪いことではないかもしれませんが、自分の中で引っ掛かっています。
自分は普段、神様の愛を十分に感じているのだろうか。
神様がいつも注いでくださっている愛に目を向けて、大切にできているのだろうか。
神様の愛が重すぎて、ディズニーに逃げているだけではないか。
考えすぎかもしれませんが、そのように考えてしまいます。
私はどうしても愛を受けると「もらった分以上に返さなければ!」と思ってしまうことが多く、負担に感じます。
ましてや神様の愛は大きすぎるので、正直一生かけても返せません。
物理的にも時間的にも無理です。
お返しがほしくて愛してくださっているわけではないことも頭では分かっています。
けど、愛を受け入れようと思えば思うほど、それがもし壊れたら?と考えると、とても怖いです。
神様が自分を見捨てることはないですが、私が変質してしまったら?罪を断ち切れなくて、自分から神様を捨ててしまったら?という不安と自信のなさから抜け出せません。
しかし、信仰を持ち始めて12年以上経つので、そろそろ本気でこの無条件の愛に対するトラウマとしっかり向き合って解かなければと思い始めました。
そこで思いついたのは、とにかく今はディズニーを利用しよう!ということです。
変化はまず肉体の行動から始まるので、ディズニーで無条件の愛を受け入れる練習をして成功体験を重ねていき、少しずつ考え方を変えていこうぜ作戦です。
死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、 卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、 肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。
コリント人への第一の手紙 15:42-44
「朽ちるもの」とは肉体のこと、「朽ちないもの」とは霊のことです。
肉体(朽ちるもの)を通して霊(朽ちないもの)が変化する、生き返る(=復活)という聖句です。
認知行動療法に似ていますね。
思考を変えるのは難しいけど、行動を変えるのは簡単だから行動から変えていって脳を上書きしていこうという話です。
ディズニーさん、これからもお世話になります。
がんばって働いてお金を稼いでパークに通います。
必ず治ると信じて進んで行きます!