「映画『呪術廻戦0』感想― 『 この世界では私は心の底から笑えなかった 』 」を書いた後、ふと気づきました。
「私は特定の職場というか、社会全体に対して適応障害を患っているんだな」と。
そのように感じる理由を3つ紹介します。
普通の子になれなかった
アメリカをはじめとする特に英語圏の国では、個性って尊重されるけど、日本は逆。
出る杭は打たれる社会。
私は小さい頃からずっと「変わってるね」と言われ続けてきました。
なんかこういう話書いたことがあるなと思ったら「ありのままの自分を出すことが怖い」という記事に書いていました。
「ズレてる」
「天然」
「不思議ちゃん」
呼び方は様々ですが、要は「一般的な人と少し感覚が違う、ズレてる」ということが言いたいんでしょう。
自分でもなんとなく分かりますよ。なんか私他の人と違うなって。
でも具体的に何が違くて、何がどうズレているのか分からないからどうしても合わせられないんです。
御言葉を聞き始めてからは「個性の王様だ」という説教があるくらい個性が尊重されるようになり、「個性だ」「しゃーない」と割り切れるようになりましたが、分からなかった時は苦しかったです。
みんなと同じになりたいけどなれない。
でもどうしたらいいか分からない。
どこか他人に対し一線を引いてしまうし、心を開けるのも怖くなりました。
「私は本当は違う世界の人間なんじゃないか。だからこんなに合わないんじゃないか。別の世界に行けば本当の自分を受け入れてもらえるんじゃないか」
こんな風に考えていた時期が長かったです。
ディズニー映画『ヘラクレス』に”Go The Distance”という曲があるのですが、めっちゃ共感できてすごく好きなディズニーソングの1つになったくらいです。
あと柱稽古編の冨岡義勇の気持ちもちょっと分かる。若干違うけど、分かる。
「俺はお前たちとは違う」って私も思ってる。
炭治郎、助けてくれ。
純粋すぎて生き辛い
この社会に適応できない2つ目の理由は、心が純粋すぎるからじゃないかなと思います。
「純粋」という個性は、御言葉を聞き始めてから気づきました。
御言葉を伝えてくださる鄭明析(チョン・ミョンソク)牧師(以下、先生)も、とっても純粋な方なんですよね。
正直可愛い。
先生の純粋でまっすぐなところが好きなのですが、先生を見ていたら「そういえば自分も比較的純粋かも?」と考え始めるようになりました。
あとは年を取ったことで気づきました。
先生が以前説教の中で「大人になっても純粋でいられるのはすごいことなんだ」というような話をされたことがあったんですよね。
それを聞いた時、「そういえばこの荒れすさんだ世で純粋でいられることってすごいな!」と思いました。
特に社会に出てから実感しましたw
社会人マジで大変だよ。
社会人マジで日々お疲れ様だよ。
自分も、社会人になってから若干すさんだ部分もあるとは思うですが(笑)、それでも純粋な心を持ち続けられていることに気づきました。
あと『鬼滅の刃』の主人公、竈門炭治郎との出会いも大きかったです。
「こころが持っている純粋さってどんなよ?」と疑問に思う方は竈門炭治郎の姿を見てください。
大体そんな感じです。
自他共に認めるくらい似てます。
「純粋」っていいことだとは思うのですが、正直この荒れすさんだ世の中で生きるには、逆に持っていても辛いです!!(ノД`)・゜・。
「役に立ったことあるか?」と聞かれると今のところ思い浮かびません!( ;∀;)
子どもと接する時はめちゃくちゃノリが合うというか(笑)、通じるものを感じるから、保育系の仕事に就けば役立つ面もあるのかもしれませんが…(^_^;)
とりあえず、今のところは結構生き辛さの要因の1つになってしまっています。
安心していられる場所がなかった
3つ目の理由は、どこに行っても強いストレスを受け続けていたことかなと考えています。
思えば私は、小さい頃からずーっと、「安心していられる場所」というものがなかった気がします。
家では父親のいうことを聞かなければならなかったし、機嫌を取らなければならなかったので、顔色と周りの雰囲気を伺うのに必死でした。
父親が気分によって別人のように変わる人だったので、仕事から父親が帰って来る時間帯は毎日びくびくしていました。
「今日は機嫌良くて天国だろうか?悪くて地獄だろうか?」
帰ってきた時機嫌が悪かったら嫌なので、自室にわざと引きこもることもありました。
父親は大丈夫でも、中学生くらいまでは姉と仲が悪かったので、喧嘩する可能性が高く億劫でした。
なので、家で本当に安心してリラックスして過ごす時間って本当に少なかったと思います。
学校でもいつもビクビクしたり周りの雰囲気を伺ったりしていました。
小学1年生、入学したての頃から(今思うと)いじめられていたんですよね。
隣の席の女の子が、何故か私が解いたプリントを鉛筆でぐちゃぐちゃに書き殴ってくるという謎の現象が起きていました。
原因も、何がしたかったのかも、未だによく分からないw
3年生以降からはよくある女子特有のいじめにも遭いました。
あるグループがあって、そのグループ内の子が1人ずつ仲間外れにされていくやつです。
「え?伝統なん?」って言いたくなるくらいこのいじめ方、どこの学校にもありますよね(^_^;)
何なんだろう(笑)。
漏れなく私も経験したのですが、そのせいで「今度はいつ自分の番が来るんだろう」ってびくびくしていたし、今思うとリーダー的な子の顔色を伺って、彼女の機嫌に合わせて過ごしていた気がします。
クラスが変わってその子たちと離れた後も、今度は親に無理矢理塾に通わされている子が、私が塾にも行っていないくせに成績が良いのに嫉妬してくるという面倒くさい状況がありました。
なのでもう絶対に自分のテストの点数は「見せない、言わない、話さない」というスタンスが出来上がりました。日光の猿たち召喚ですよ。
聞かれたとしても平均点プラスαくらいの適当な点数を伝えていましたw
クラス変えしても、他の女子グループでまた同じような1人ずつ仲間外れにするいじめはあったので、結局息が詰まるような過ごし方で、安心感なんて1㎜もありませんでした。
中学も同じ感じ。小学校・中学校は自分の中で暗黒時代です。
安心して過ごせなかったから常に気が張っていたと思います。
でも「疲れた」とか「嫌だ」とか、とにかく感情を殺しながら、機械的に生きることで平常心を保っていたんだと思います。多分。
何が言いたいかと言うと、家も学校も常に気を張って過ごさなければならず、「ストレスの場」だったということです。
どこに行っても強いストレスを受け続けていて、蓄積されていたのも合わさって爆発したんじゃないかなぁって気がします。
最後に
1.普通の子になれず、「変わっている」と言われてきた(自分でもそう思っていた)
2.純粋すぎる
3 .常に神経が張り詰めていて強いストレスを受け続けてきた
以上3つの理由から、生き辛さを感じているし「この世に適応できない」という考えも生じているのかなと言う考察でした。
ここで終わったらただの愚痴になってしまう気がして嫌なので、希望的な話をして終わります。
この世ではあまりにも生き辛いので「違う世界にトリップしたいぜ」と思っていた私ですが、御言葉を学び始めてからある意味その夢が叶ったと感じています。
というのも、世界を見る目が変わったからです。
別の表現で言えば、自分が変わったからです。
聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。
テモテへの第二の手紙3:16
神様の御言葉を学ぶことで自分の心・考え・精神が変わるのですが、例えば今まで不平不満文句ばかり言ってたところが「感謝しよう」に変わるとします。
感謝の目で同じ物事を見たら、180度違って見えるんですよね。
だから世界は変わらないし、御言葉を学ぶからと言って困難や大変なことがなくなるわけではないけど、自分がその物事を見る目が変わるから、違って見えるんですよね。
まだまだ生き辛さも抱えているし、適応障害が治ったかと聞かれると完治はしていないけど、少しずつ良くなってはきていることは確かです。
だから、感謝です。
続けて御言葉を学んで、自分を卑下する考え方を直しつつ、処世術も身につけつつ、特に純粋さをどのように武器にして戦っていくかを学んで、楽しく生きられるように自分を作っていきたいです☆彡