説教を聞きながら、ふと感じたことがありました。
「受け入れる」ことというのは、1番大きな愛情表現なのではないかと。
聖書を読むと、ヨセフやモーセ、ヤコブ、ダニエル、イエス様…神様が遣わしてご自身の体として使っていた人たちはいつも迫害されていました。
ここに挙げた以外の人たちも、聖書を読むと悪口を言われ悪評され、受け入れてもらえなかった様子が書かれています。
その中でイエス様はこのようにおっしゃいました。
よくよくあなたがたに言っておく。わたしがつかわす者を受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをつかわされたかたを、受けいれるのである」。
ヨハネによる福音書 13:20
この聖句を基にした説教を聞いた時に、ふと思ったのです。
「イエス様はどうしてこうおっしゃったのだろう」。
そしてこのことについてお祈りした時に、ふと思いました。
アダムとエバの堕落から始まった、神様による救いの歴史。
いつの時代も神様はご自身の体となる使命者を地上に立てられたけど、その人たちを「神様の使命者」として受け入れ、迎え入れてくれる人は少なかったのです。
逆に、神様の使命者を受け入れ、迎え入れた人には永遠の命をくださいました。
この事実を考えると、神様にとっては「受け入れる」ことや「迎え入れる」ことを、人間の神様に対するとても大きな愛の証としてみなしてくださるのではないか?
だからイエス様を受け入れて信じた人には、永遠の命を与えてくださったのではないか?
私はそのように思いました。
「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」
ヨハネによる福音書 1:12
人間が神様に捧げられる1番の愛が、神様が遣わした方を「受け入れる」ことなら、逆も然り。
神様も「ありのまま」の私を受け入れてくださるということに気づきました。
罪があっても、何度も同じ過ちを繰り返しても、神様を忘れて生きても、神様は「私という存在」自体を否定なさることは絶対にありません。
罪人をも愛してくださる神様です。
イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
マルコによる福音書 2:17
罪を犯したら悔い改めなさい、何度も同じ過ちを繰り返したとしても諦めずに最後まで悔い改めなさいとおっしゃり、悔い改めることをひたすら待ち続けてくださる神様です。
「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」
ペテロの第二の手紙 3:9
「天国には否定がない」と鄭明析(チョンミョンソク)牧師から聞いたことがあります。
自分がどんな姿だとしても、どんなに罪が多くても、調子が良くても悪くても、絶対に存在否定をせず、愛してくださる神様、受け入れてくださる神様。
私も神様の使命者を否定せず、受け入れて迎え入れることで、神様の愛に応えていきたいと思いました。
そして自分自身のことも、神様がしてくださるように、ありのままの自分を受け入れて迎え入れて、愛してあげたいです。
自己肯定、がんばろう。