承認欲求と期待と神様-「言わなけばわからない」

闘病の経緯

承認欲求。

誰かに認めてもらいたいと思う心。

 

人間なら誰しも、この承認欲求というものを持っているそうです。

 

小さい子供の頃にちゃんと満たされていたら、

そんなに大きな問題には発展しないけれど、

満たされなかった場合は違います。

たとえ体が大人になって成長したとしても、承認欲求を満たしてもらおうと振る舞ってしまうそうです。

 

こころは、まさに後者。

 

そして最近、この承認欲求の強さによって

人間関係を始め、自分の行動にも様々な問題が引き起こされていることを

深く悟ることがありました。たくさん。

 

「認めてほしい。」

 

その心自体は決して全否定するような悪いものではないと思います。

けれど、度が過ぎるというか、他人に強く求め過ぎると大問題になります。

 

「認めてくれない。」と思うと寂しさを感じるし、下手したら相手を憎んだり恨んだりする方向に行くし、相手が認めてくれないのが悪い!という責任転嫁にも繋がる可能性があります。

怖い怖い。

 

では、満たされなかった承認欲求はどうして強くなってしまうのでしょうか。

(以下、こころの持論なのでご了承の上お読みください)

 

親や周りの大人が認めてくれなかった。

つまり、褒めてくれなかったとか、感情を出した時にわかってあげようとするよりかは怒って否定されたとか、

親に原因がある場合もあると思いますし、

たとえ親や周りの大人が自分を認めてくれていても、自分が自分を認めなければ?

たとえどんなに周りが肯定しようが、自分の脳はどんな褒め言葉も受け入れません。

自己否定、も大きな原因の一つだと思います。

 

「わかってほしい」。

 

この思いが強くなる一方で、ここ最近ずっと苦しかったです。

 

どうしたらこの思いを消せるのか。

自分が自分を肯定できれば解決できるのかもしれないけど。

私にとってそれはとても難しいことでした。

 

どうしたらいいのかわからなくてお祈りしたその日、御言葉でヒントをいただきました。

 

 

言わないと分からないということです。本人たちが言わなければ分かりません。これが絶対責任分担です。

神様が見ても、「神様はどうして私にこういうふうに接するのだろう?」「言わなかったからだ。」

 

必ず自分のことを言わなければなりません。言わなければ「違う」と認めるのです。

自分が言わなければ分からない。

「最終的にはあなたが言わなければ分からないと思いなさい。」

鄭明析牧師の御言葉より抜粋

 

「言わなければわからない」。

本当にアーメンです。

 

鄭明析牧師がこのことを悟ったのは、ご自身の経験からだったそうです。

 

以前、先生は70日間食べられず、お腹を空かせて兄のところに行ったけれど、食べ物をもらえませんでした。私が何も言わなかったので、断食中だと思ったようです。私は再び遠い道のりを這うようにして戻ってきました。

30年経ってから、70日間も食べられないで何か貰えるのかと思ってお兄さんのところに行った時、食事の後で食べ物が残っていたのに、どうして食べ物をくれなかったのかと話しました。根に持っていたことを解くために聞いたのです。   

兄は答えました。「当時のことは定かではなく、おぼろげに思い出したけれど、あの時長期間の断食中ではなかったのか?」と言いました。

「断食ではなく、本当に飢えていたなら、どうして御飯が目の前にあるのに食べなかったのか。」と言いました。

私は「食べ物が無くて70日間も食べられなくても、人の店の塀を越えて盗みに入るどころか、店の主人が見ていなくても店先にあるパンを盗んで食べるようなことはしませんでした。そのような良心の持ち主が、お兄さんの家で目の前に御飯が残ってはいたけれど、食べなさいとも言われないのに、自分の御飯でないものをどうやって食べるんですか。」と言ったら、兄は全く知らなかったと言いました。   

私は、飢えてやせ細っている私の姿を見て、兄のほうから言ってくれるだろうと思っていたのです。   

鄭明析牧師の御言葉より抜粋

 

その時に先生は「言わなければわからない」ということを悟られたそうです。

 

自分自身のことを考えてみても、話してもらわなければわかりません。察せない。笑

比較的敏感で相手の機嫌とか体調の良し悪しとか察する方だとは思うのですが、それても言ってくれなければわからないです。人間なので。

 

この御言葉からもう一つ考えられるのは、【対話しなければわからない】ということかなと思います。

 

尋ねてみて、対話して(結局は言わなければということですが)みたら「あぁなんだそれで機嫌が悪かったのね」とかわかるからです。

 

わからなければ、対話しなければ、自分があれこれ勝手に考えて妄想して誤解して「自分が〇〇したから機嫌悪いのかな」とか「私何かしたかな?」とか

余計なストレスを受ける羽目になったこと、私はめちゃくちゃたくさんあります。

 

神様に対しても同じです。

自分が言わなければ、神様も「わかった」とおっしゃらない。

神様に対して誤解していたことも、祈って自分が神様に言ってこそ

心の中でつっかえていたものが解けて、涙がボロボロ流れて感謝して祈った経験

神様を信じている多くの人があるのではないのかなぁと思います。

日本人なら特に、あんまり話さないですからね(^◇^;)

 

神様全知全能だから知ってるでしょ、と思うけど、「話してほしい。対話しよう」てことですよね。

 

ある時は「言わなくてもこのすべてをあなたにあげることを知っているけれども、それを祈りなさい。」と神様は仰るそうです。

 

愛しているから。

だから対話したい。話していたい。

お互いのこと、あれこれ打ち明けてもっと知って、近くなって、関心をもっと持つようになって。

そのような愛を、神様は自分に望んでいらっしゃる。

何より、わかってくださり、赦してくださり、ありのままの自分を愛してくださる。

 

でも人間は。

 

話しても、価値観が合わなければ否定するし、そもそも理解されない。

「共感」や「同感」はしてくれるけど、体験したことがなければ、本当の意味で「気持ちをわかる」ということは難しいのではないかと思います。

 

また、自分にとってはとても深刻で、かなり勇気を出して話したことを

相手が自分と同じくらい深刻に受け止めてくれて、わかってくれることはほぼない。

たとえそれが自分の親でも。

 

しかもこちらは深刻に真剣に話したことを、さらっと流されたり軽く受け流されたりしたら、もう心はズタボロになる。

 

私は今年になって(わりかし最近のこと)、自分がHSPかもしれない、ということを母親に話した時がありました。

私にとってはかなり勇気が必要だった告白でした。

どう捉えられるかわからなかったからです。

 

何日も話すか迷い、すごく決心して、泣きそうになりながら話したけれど

母は、私のその心を知ることなく。

私が期待していた反応とは、まったく異なる反応を示しました。

 

その時母がどのような言葉を話したのか、数ヶ月前のことなのにまったく覚えていません。

ただ、私がHSPかもしれないという話自体を真剣に聞こうとせず、軽く受け流してすぐ別の話をし始めたことだけ覚えています。

 

母は元々超楽観的で、楽観的すぎて、真面目に話しても真面目に聞かない能天気な人です(^◇^;)笑

なので今となっては「まぁいつもとおりの反応だな、こんなもんだよな」と思えるのですが

打ち明け話をしたその瞬間は、精神的にかなり落ちている時だったこともあり、「さすがにわかってくれるだろう、聞いてくれるだろう」と期待が強くなっていたのだと思います。

 

当時は神様に祈ることも疎かになり「こんな私の祈りなんて受け取ってくださらないだろう」と、神様に対して疎外感も抱いていたので、母に1番承認欲求が向いていました。

 

期待が大きかった分、期待に外れた反応はかなりダメージも大きく、最後の心の拠り所がガラガラと崩れ落ちたような絶望感に襲われました。

声を押し殺して泣きながら横になったことを、今でもはっきりと覚えています。

 

悲しかった。母はいつもそうだった。

話をちゃんと聞いてくれる時もあるけれど、愛してくれているのはわかるけれど。

私が真剣に話していることを、笑いながら軽く流すことも多かったです。

 

大好きな母だけれど、大好きな分、期待が大きくなってしまって、勝手に失望しまくっていました。

 

今回もそうでした。

御言葉で出てきた表現を引用するなら、母につまずいたのです。

 

「何であの人はああなんだろう?どうしてこうしたんだろう?自分は何でこうなんだろう?」

試みに遭う。疑いの気持ちが生じる。「何でああするんだろう?すごく気分が悪い。嫌だ。今までよかったけれども、本当に消え去りたい。」それが「つまずき」です。失望したのです。

 

「何でああいうことをするんだろう?」と試みに遭ったという話です。

「主にも自分にもどんな人にもつまずくな。つまずかない人は幸いである。」

鄭明析牧師の御言葉より抜粋

 

正確に言うとこの「つまずく」というニュアンスは「失望」という言葉では弱いそうです。

 

失望、ではなくつまずいた。

「つまずくなというけれど、それでもつまずきます!!どうしたらいいですか!!」と泣きながら神様に訴えました。

 

「無条件つまずくな」とまでおっしゃってたのですが、私はそれでもつまずいたのです。笑

 

泣きながら神様に訴えていたら、だんだんと落ち着いてきて、なんだかもう人に期待するのがバカらしくなってきました。

 

「いくら親でも24時間一緒にいるわけじゃないし、私が何を見て何を感じながら生きてきたのか、今どんなことを考えながら生きているのか、職場の状況がどうなのか、どんな友だちを持っているのか

すべてを知ることなんて無理じゃないか。

 

どんなに近くてよく話す人でも、私の職場に行ったことがあるわけでも、その状況を経験したことがなければ、わかるわけないじゃないか。

たとえもし同じ状況・環境下に他の人が置かれたとしても、考え方も感じ方も違うんだから、本当の意味で私を理解してくれる人間なんているわけがない。

 

24時間私の心も行動も状況もすべてを見て知っているのは、ただ神様だけだ。

 

あぁ、もう人に期待するのやめよう」

 

どうにでもよくなり、ショックを受けた中で浮かんできた言葉に、自分でも驚きました。

 

こんな風に考えられるようになったなんて大分成長したなと。笑

 

 

考えられるようになった、というだけで、今もまだまだ期待も失望もしてしまいますが(ー ー;)

 

母の楽観さに救われたこともたくさんあったし、今は神様に出会えたからいっか。というように思えるようになったのは、自分の中ではかなり大きい。

 

根本的に、私を理解してくださるのは神様。

 

神様を知らない時は、期待を向ける対象をどれだけ変えても結局「人間」にしか向けられなかったけど、今は神様に期待を向けられるから。

感謝して、少しずつ考え方を変えていけるように。

期待値のバランスをうまく取れるように。

※全く人に期待しないで生きたら全部抱え込んで倒れてしまうと思うので(^◇^;)

 

人に期待するより神様に期待。

そして、自分でもちゃんと自分のことを認めてあげること。

 

一つ一つ、神様と共に打ち勝ち、「生きづらさ」から解放されていきますように。

 

明日からもまた、頑張ろう。

 

人が分かってくれないところで行うから功績がより輝く。

 

人が分かってくれないときやった功績はより輝きます。大きい人だと思って分かってもてなすのと、普段やっていたとおりに行ったほうが大きいんです。

 

人にわかってもらうことを望むな。

罪を犯したときには隠れて罪を犯すでしょ。アダムとエバもそうでしたよね。

罪を犯すように、隠れて罪を犯すように、盗人がこっそり盗むように、あなた方も義をそのように隠れて分からないようにしなさい。

でも盗んだものを、罪を犯したことがすべて露わになるのと同じだ。

義を行ったことが全て現れる。

鄭明析牧師の御言葉より抜粋