誰の言葉を信じるのか

闘病の経緯

早いもので、もう2月が終わろうとしていますね。

春のポカポカとした陽気が楽しみな反面、最近の私の心は冬模様でした。

気づいたら自分を責めていて、

気づいたら他の人には言えない酷い言葉を自分には言っていて、

気づいたら自分を否定していて、

気づいたら、とてつもなく疲弊している自分がいる。

いつからかは正確には覚えていないけど、いつの間にか自分を責めるのが癖になっていて、これが私の「当たり前」でした。

この「当たり前」を繰り返して、何年になるのかもう分かりません。

自分が自分を否定すると、他の人も自分を否定するんだろうなって無意識のうちに考えてしまって、考えがどんどん卑屈になっていく。

相手の言葉を悪く受け取ってしまって、苛々して、そんな自分にまた自己嫌悪を感じて、苛々して。

悪循環の繰り返し。

でも、本当は苦しいし、辛くなる原因になるというのも分かっている。

直したい。けど直せない。

やめればいいというのは分かっているのに、やめられない。

自分一人の力では、もう抜け出せない。

だから、神様に「どうしたらいいですか?」と祈りの中で聞いてみました。

そして迎えた礼拝の時間、御言葉ではっきりと答えが返ってきました。

そこで、ふたりを呼び入れて、イエスの名によって語ることも説くことも、いっさい相成らぬと言いわたした。

ペテロとヨハネとは、これに対して言った、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」。

使徒行伝4:18-20

この場面は、イエス様が十字架につけられて亡くなった後、ペテロとヨハネがイエス様を証して伝道しまくっていたところに、ユダヤの宗教人たちが来て、ペテロたちを脅したときのお話です。

脅しの言葉に対し、ペテロとヨハネは大胆に言いました。

神様の前であなたたちの言葉を聞くことが神様の言葉を聞くより正しいかどうか判断しなさい。私たちはあなたたちの言葉より神様の言葉をもっと聞いて信じている」。

私はこの言葉を聞いて、とてもはっとしました。

たとえ誰かが私の悪口を言って、悪評して、私のことを否定したとしても、

その言葉を真に受けていいのだろうか?

所詮人間の基準であれこれ言うだけであって、全知全能な神様、私を造った神様は、彼らの言葉が正しいと認めるだろうか?

もちろん自分が悪くて、本当に直すべき部分について言われた言葉は受け取って、直す努力をする必要がある。

でも、だからといって神様は私の存在自体を否定するだろうか?

私の存在を否定できる人なんて、この地上には存在しない。

誰も私の命の尊厳と存在意義を否定することはできない。

そんな権利、人間にはない。

だったら、「お前は最悪だ、存在するな、お前なんて生きている価値がない」という人の言葉と、「あなたは貴重だ。私の愛だ。愛している」とおっしゃる神様の言葉と、どちらを聞くべきだろうか?

弟子たちのように、「誰が何と言っても私は神様の言葉を信じる」という精神が欲しい。

たとえ相手が自分自身だろうが、他人だろうが、誰かが私のことを悪く言い、憎まれ、恨まれ、嫌ったとしても、神様を中心にして、神様が私を愛してくださるその愛を信じて、自分の存在意義に対して揺れない強い人になりたい。

「私に今必要なのは、その精神だ」と、説教を聞きながら強い感動を受けました。

神様がおっしゃる自分の絶対的な価値を、悟りたいです。

揺れないで堅固に信じて、自分の絶対的な価値に対して、強い信仰を持てるようになりたいです。

焦らず、少しずつですが、今できることを精いっぱいやりながら、その日を目指して前進していきます。