祈って、自分をいつも振り返り、いつも自分を把握しなければいけません。初めの信仰をみんな取り戻し、行わなければいけません。
初めの愛をなくしたら、価値もなく、愛も冷めてしまい、なくす。ムミになってしまい、主管圏が変わるようになります。どんなことでも、最初にやった時のことを忘れてはいけない。大切に思うこと、大事に思うこと。
物も家も人も、最初はそれを得て、喜びに満ちて、愛して自慢して、時間が経つことも忘れて喜びをもって生きていきます。しかし、それが冷めた時は甲斐も感じない、喜びもない。愛も少ない。そして、普通のものになってしまいます。
物が変わるのではありません。心が変わるのです。だから、心を取り戻せばいいのです。大事に思って、その価値が分かれば取り戻したことになります。物は変わりません。
鄭明析牧師の御言葉より抜粋
先日宣布された御言葉。
いまだに心に突き刺さっています。
無気力は絶賛続いており、前回書いた通り記事を書く気もせず、ブログに対する初恋もすっかり失っていたからです。
何のためにブログを始めたんだっけ?
今も続けているのは何のためだっけ?
根本的な部分を考えてみた時、「私が生きてきた経緯」を伝えようと決心した時の心を取り戻すことができました。
御言葉に出会う前の私はもっとネガティブで、何でも否定的に捉えてしまっていました。
そんな自分が嫌で、もっと明るい性格になりたかったし、肯定的で元気な人になりたいと思っていました。
変わろうと思って地元を抜け出して都心の高校に行ったり、ダンスを始めたり、留学に行ってみたり、様々に環境を変えてみたりしました。
けど、結局自分の根本的な思考の癖は変わらず。
変わろうと生活の中で努力してみても、そんなに大きな変化は見られず、落ち込む毎日でした。
「お前は変われない。お前は一生このままだ」。
今思うと思いっきりサタンですがもちろん当時はそんな単語知らないので分別もできず、聞こえてくる声に同意して
「私は変われないんだ」と落ち込む毎日でした。
表現を変えると、自分で自分を諦めてしまっていたのです。
元々ストイックだし自分に課している基準が高いというか不適切で、所謂「完璧主義」なため余計に自分を許すことが難しかったです。
それは今もあんまり変わってないですがw
自分に対して厳しいからか、人に優しくしたくてもうまくできなかったり、自分の足りなさ故に人に残念な思いをさせたり、笑顔を奪うようなことをしてしまうことが苦痛でした。
人を愛したいのに愛せない。
そんな葛藤にまた悩み、できない自分を責める毎日。
それが私の日常でした。
けど。
そんな私が、なりたかった自分に近づけたきっかけがありました。
そのきっかけが何だっかというと、御言葉です。
御言葉で神様の愛を学んだら、神様がどれほど人間一人一人を愛しているのかわかって、その心情で人を見ることができるようになりました。
より具体的に言うと「この人神様に愛されている!貴重で価値のある人だ!」という感じで神様の心情で人を見れるようになったのは大きかったです。
※自分の気分や関係性によっては苛々したり愛せないって思ってしまう時もまだまだある(ー ー😉
また「人間は作り方次第だ」と仰って、現在足りないのなら作ればいい、途中でやめないで最後までやりなさい、等々
自分の否定的だった思考の癖を矯正してくださる御言葉によって、御言葉を聞き始める前の自分と比べたら、大分変化してきた…と信じていますm(_ _)m
まだまだ書けるネタはたくさんありますがキリがないので今回はこの辺で。
で、結局私はブログで何を伝えたかったのか、どうして今も書き続けるのかというと
簡単に言うと伝えたいことがあるからです。
何かって?
それは。
御言葉があれば、変化できるよ。
ということです。
御言葉を聞いて信じて行えば、変われるよ。
だから諦めないで。
自分自身のことを。
否定しないで。
自分自身のことを。
「お前は何回やってもダメだ、変わらない」って罵倒しないで。
自分自身のことを。
誰かに慰れられることを望まないで、自分が自分を慰めてあげて、奮い立たせないと。
誰かが慰めて掴んでくれたとしても、それは微々たる力にしかならない。
どうしてかというと、手を引っ張られたところで
立ち上がるのか?立ち上がらないのか?
決めるのは自分自身だから。
だから、自分が自分を諦めたら何にもできなくなります。
信仰者たちを支えてあげ、管理してあげたとしても、本人がそこで自らやるからそれが役に立つのであって、本人が「やらない」と言う時には何の役にも立ちません。
幼い子供が、親や兄弟が助けてあげて、導いて行きますが、自ら行かないと、力を抜いてしまうと、転んでまた転んで、行けないということです。
みなさん、信仰管理をやってみたことがあるでしょう。あんなに管理してあげたのにちょっと管理しないと、あっと言う間に出て行ってしまう。それは、自らしないから。
だから、自らする哲学を、精神を教えてあげなければいけないのです。
主の中で自らいつもやれば発展し、向上し、理想的になります。自らやれば3倍、10倍、20倍。
先生は自ら行なって、山に行って祈ったのであって、あの寒い零下15度、最近、今、マイナス13度、14度まで明け方は下がっていますが、そのような天気の時に山でいてみてください。
自らするのでなければ打ち勝てなかったのです。誰かがさせるといって、できるでしょうか。「私を凍え死にさせる気か」と逃げたことでしょう。だから、自らするということがそれほど恐ろしい威力を持っているのです、自らすることが。
自らしたから存在できたのです。
鄭明析牧師の御言葉より抜粋
生きるのか死ぬのか。
自分を諦めて安住するのか。
痛みや苦痛を味わうとしても、親含め誰に何を言われようとも、本当の意味で自分(の個性や才能)を生かす命の道に進むのか。
誰も強制はしない。
本人が決心して自分の意志で進まなければ、結局最後まで行く力がない。
だから途中で終わってしまう。
(『アナ雪2』のエルサも、自分で決心して行ったからダーク・シーまで越えて最後まで行けましたし)
「いやいやそんな事はない。私は人に言われて仕方なくやるとしてもできる」という人は良くも悪くも根性があるのか(^◇^;)
でも突き詰めれば自分の人生。
人から言われた道を進むというのは、客観的に考えると悲しい人生だと私は思ってしまいます。
自分が選択して、自分の足でしっかりと歩いていく人生。
自分が自分を生かす生。
自ら生きる力。
理論的には理解できても、いざ実践してみようとするとめちゃくちゃ難しいです_:(´ཀ`」 ∠):
人間は完璧ではないし、見えている範囲が狭いから判断を誤るし。
そもそも1秒先の未来もわからないからその選択が正しいのかも確信持てないし。
食べて飲んで洗って寝て働いて…生きるためにすべきことがあまりにも多いし。
体が弱ると動けなくなるし、心も弱くなるし。
人間が生きることって、なんやかんやで簡単ではないのではないかと日々感じますm(_ _)m
でも御言葉は、そんな悩みをすべて解決させてくれます。
判断は祈って神様と相談して神様に委ねればOK。
過去現在未来すべてを貫き通して最善の道を教えてくださるから安心。
自ら行なう精神を身につけられるように教えてくださるから感謝。
万々歳٩( ‘ω’ )و
何より。
神様は私のことをお見捨てにならないから。
あなたが生きながらえる日の間、あなたに当ることのできる者は、ひとりもないであろう。わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない。
ヨシュア記 1:5
自分自身を最後まで信じてあげ、愛してあげず、
自ら認めてあげない人は人としきりに比較するから結局倒れます。
生活がなかなか矯正できなくても、自分の心が繰り返し折れても自分をとがめるのは間違った方法です。
そのような間違った考えは、自分自身を傷つけます。
考えの傷を持っていると、人を愛することも難しいし、他の人が来て、ある行為を矯正してくれたり、間違いを指摘したりすると、落胆してすぐに折れてしまいます。
生が自分の考えどおりに、自分の「理想」どおりにならないときもあるし、難しいときもあります。
しかし最後まで自分自身を信じてあげ、コーチしてあげ、矯正しなさい。そうしてこそ、実を結びます。
足りなさは知るべきですが、その足りなさを憎んではいけません。
自分の心によって、主の愛が歪曲(わいきょく)して見えます。
鄭明析牧師の御言葉より抜粋
自分が自分を諦めないで。
何度やってもうまくいかない自分のことでさえ信じてくださる神様の寛容で大きな愛の心を信じて。
足りなくても、あなたは愛されていいんだよ。
足りなさは、これから御言葉を学んで神様と一緒に満たしていったらいいんだよ。
それが、私がこのブログで伝えたいメッセージです。
私が変われたんだからあなたも変われるよ~ん(/・ω・)/
ていう希望を与えたい…というと上から目線な感じですが、とにかく希望があることを知ってもらいたくてブログを始めたのです。
いやー忘れてたー。忘れたらブログもやる気も死んじゃってできないですね。
というわけで、今まさに悩んでこのブログを開いてくださったYou、心配しないでください。
頑固な私でも変化できたので。
希望を持って、神様を信じて生きていきましょう。
私自身初めの心を忘れないで、
「誰がなんと言おうが、私が自分で決断して行くって決めたんだー!」と考えの強度を上げて、自分が決心して毎日進んでいきたいです。